今日はただの独り言である。

  • モジモジ君の日記。みたいな。――切断処理したがるのは誰か

 http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20051222/p1#

社会制度は常に不完全であり、そこに取り残された人がいる。ゆえに、社会制度が頼れないところでも、(1)当面の生活を支えるための活動が必要であり、(2)その状況を変更して社会制度を作っていく活動が必要である。これら二つは、原理的に無報酬・持ち出しで負担する人がいなければ不可能な事柄である。ボランティアの本質は、今そこにないものを補充し作っていく活動であるという、活動内容における先駆性である。ついでに言えば、しばしば言われるようなボランティア=生きがい論のようなものはまったく外している。参加する人間がたのしんでいるかどうかとか、それが生きがいになるかどうかとか、そういうことは比較的瑣末な話で、とりあえず考えなくてもいいことである。それを「たのしくやる」ことは常に努めつつ行われていることが多いが、それ自体が「たのしいものである」ということは普通はない。社会制度尽きるところの最前線で矛盾を目の当たりにし続けること自体がたのしいという人は、やはりどっかおかしい。

5年ほど前、ちょうど今頃、毎週1日、山谷の炊き出しを手伝っていたことがある。秋から冬にかけて半年ほど。夜8時頃から、公園の花壇の上に古着の入ったダンボールを並べ、これはデザインがちょっとあっちのコートがいいと文句の多いホームレスに手渡していき、ついでに石鹸や歯ブラシなども渡す。手が空いたら握り飯を配ったり公園のゴミ拾ったりを手伝う。寒くても彼らの体臭は臭うし、山谷の路上はションベン臭い。ホームレスと援助物以外の話をしたことは皆無だった。手渡しの際にも眼を交わしたりすることはほとんどなかった。黒く汚れた彼らの顔は暗い夜では、あまりはっきり見えなかったりもしたのだけれど。「たのしいもの」ではなかった。

このような観点から見た場合、ボランティア活動のこのような意味合いを理解している人の場合、「切断処理」をすることは断じてありえない。常に、いかに人を巻き込むかに腐心しているのがまともなボランティアの現場である。*1むしろ、(自分にも帰属させているところの)社会に対する責任を相手にも帰属させ、切断どころか結合させようというのが常々考えられることであるからだ。*2その意味で、hazama-hazama氏のこの反転してみせた構図、「ボランティアしないのは悪い=帰属処理  ボランティアやってない人非人とは違う=切断操作」、は、まったく外している。

なぜ、山谷に向かったのか。ホームレスがいるからではなかった。新宿にも高田馬場にも上野にも、今の東京のどこにだって彼らはいる。炊き出しをやってる人間がいたらからだった。そのときの気持ちが上の文章を読んで少しはっきりした。一言で言えば、なぜボランディアをやる気になるのか。けれど、もっと自分の中のいやらしい部分を覗けば、彼らのような人間が帰属処理と切断操作をしているかどうかを確かめたかったという気持ちがあったろう。

切断操作」したがるのは誰なのか。基本的には、逃げたい連中なのだ。いや、違うか。逃げたいという気持ちの問題であるならば、実際にボランティアを担っている人の間にも「やらないですむものならやりたくないよ」(=逃げれるものなら逃げるよ)という声はしばしばある。適切に言い換えるならば、本当に逃げてしまう奴だけが、逃げたことの言い訳として「切断操作」を行う。

では、なぜこのような「切断操作」は批判されるのか。実は、社会に対する責任を負っていないということを堂々と主張し、それを正当化する論理をきちんと述べた上で、ボランティア的仕事にコミットしないことをきちんと説明した上で切断処理するのであれば、そしてそれに対する有効な反論を誰もできないのであれば、担わないで逃げることは正当化できている。堂々と切断操作してくれればいい。しかし、こういうことをきちんと言う人は、少なくとも経験上はただの一人もいない。そしてむしろ、そうしたことを「言わないために」帰属処理(「あなたは好きでやっている」と言い放つこと)が行われる。

つまり、こういうことだ。自らと社会的責任の間において、そこにある論理において切断処理をするならば(そしてそれが可能ならば)、それは認める。というより、認めざるをえないだろう。しかし、連中はそれをやる代わりに、自らとボランティアを担う人々の間の別の差異に注目して(あるいは差異を捏造して*3)帰属処理を行った上で、その捏造された関係の上で切断操作をしたことをもって切断できたかのように装うのだ。だから批判しているのである。*4

反転してみるのは一つの有効な思考実験にはなるが、反転しただけで満足する人は実に多い。反転してみたところでうまくおさまらないことこそが、きちんと考えねばならない論点であるのに。そこをきちんとチェックしない思考は、単なる遊戯にしかならない。

そういったボランティアに関わる人間が関わらない人間を逃げていると考えてるのか、自分は逃げているのか、逃げるのは悪いことなのか、逃げてもいい理由はあるのか。半年で去ったとりあえずの結論は、彼らは来るもの拒まず去るもの追わず、だった。ホームレスを皮肉って困った人間だと炊き出しが終わった後の集まりで皆で笑ったりした。あまりうまく笑えなかった。炊き出しの前に近くの食堂で飯を食べさせてもらうのが何か申し訳なかった(それだって500円くらいの定食なのだけれど)。人間同士の付き合いなので、ボランディアの間で居心地の良さ悪さはある。なんとなく居心地が悪かったのかもしれない。物心ついてから何事についてもずっとそんな気がするが。


それに、当時の自分は、今よりよほど先行きがどうなるのか見えてなかった。見えなかった。社会と関わる方法が見えなかった。だから、何かしら社会に対してこちらから関わっていく部分を自分で作り出せない代わりに、社会に対する責任を負いたがってやっていたのかもしれない。だから半年ほどたって行かなくなったのは、何かしらの責任を負う準備や覚悟ができそうに思えたからだったのかもしれない。


握り飯や味噌汁を手渡していたホームレスの人たちに、そんなこちらの事情は関係ないし、関係しなくとも握り飯は渡せる。渡してもそれで上手いも不味いも変わらない。