水没の前に(監督・編集:リ・イーファン、イェン・ユィ)


 金曜にアテネ・フランセ文化センターで18:30の回。外国語学校の最上階にある手造りな映画館。約150席+補助席約20席はほぼ満席。かなり狭っくるしく暑苦しい中で、鑑賞。

三峡ダムの建設で歴史の町が水没する。移転に伴う補償を求める庶民の強欲と行政の混乱、キリスト教会の裏帳簿に建材の転売取引。電気水道が止められた灼熱の廃墟に留まり続ける人々。喧騒に満ちた生活のどこにでもひっそり遍在するカメラと見事な編集が世界を驚愕させた、ダイレクトシネマの真骨頂。


 ドキュメンタリー映画を観終わって、「ちょっといまいち……」と口にしながら席を立つ少なくない観客が期待していたものは、一体なんなのだろうか? フィクションでは太刀打ちできないくらい迫真に満ちた人間ドラマか? CGでは太刀打ちできないくらい迫力に満ちたセカイの崩壊か? 撮影者の語りやナレーションは一切入らず、住民たちの言葉に英語と日本語の字幕がつくシンプルな構成は、こちらを高揚させるような演出とは無縁だ。中国の広大な国土に建設される超巨大ダムによって水没していく街……、という題目に、スペクタクル巨編を錯覚してしまったせいなのか?


 非常に地味。差し渡し2kmという三峡ダムの建設現場は一切、スクリーンに登場しない。建設現場のずっと上流で進められる、ある小さな川沿いの街の住民がわずかな補償金を与えられただけで強制移住を余技なくさせられた、2002年の初春から初秋にかけての、半年を撮り続ける。そこに、こちらを涙させるようなドラマはない。顔をほころばせるような人情話もない。自分の取り分をどれだけ大きく出来るかに右往左往する人、とにかく面倒ごとをしょいたくなくて他人の不幸に頬かむりをする人、右往左往した結果やはりどうしようもなくて途方にくれる人。ほぼ、この3種類の人間。



 移住=実質的な強制排除を進めるために建物は放置されず、いちいち破壊される。そのための日雇い労働者が一時の寝床にする安宿*1の経営者夫婦は、わずかな補償金では移住地でまた宿の経営はできないため、カネの工面で途方にくれる。おそらくニュータウンへ繋がっているのだろう巨大なコンクリート製の橋の下のガレキの地面に、なんとか家を建てられないかと老体を酷使して降りて行く夫婦の片割れの老人のやるせなさ。
 キリスト教の教会の神父と事務員らは、取り壊した教会の材木を売って利益を出す算段をつける目論見を、取り壊しの工事を前の主任の息子に依頼するしないで揉める。工事を依頼されたつもりだった息子が、工事の件はもういいオレはかつてないほど誇りを傷つけられた表に出ろ、というふうに分かったような正論をぶつのを、その場にいる拝金神父や我が身だけ可愛い事務員らにしらーーっとした空気で流される数分間のワンカットショット。



 ただただ、「カネ」と「老い」と「コネ」をなんとかできない人間を、容赦なく切り捨てていく現実のみが延々と淡々と。


 映画のラスト近く、コンクリの屋根を槌で砕かれ、水道管には木の杭の栓をされ、電線はペンチで火花を散らしながら切られた、ボロボロで真っ暗な家で、ロウソクの灯りで食事をしてる老人たちが、やはりその時点になっても行く当てがないことを口にする。その後、老人達の姿や声はスクリーンに出てこない。老人たちは、ニュータウンへ旅立っていけたのだろうか?

*1:日雇い労働者らは、自分の毎日食べる米は持参しており、それをアルミの弁当箱に入れて炊く。その米を入れて壁にぶら下げられたビニール袋に、赤い「セイジョー」の文字。逆に現実感が薄れたのは何故だろうか。