オタクvsサブカルよりオタクvsオタク右派のほうが面白そう。


 神保町の東京堂書店でちくま書房のPR誌「ちくま」の最新号をもらってきて「オタク文化の現在」で竹熊健太郎伊藤剛森川嘉一郎が対談している「オタク・サブカルサブカルチャー」を。この号には対談の最初の一部しか掲載されておらず「つづく」となっているので、オタクがサブカル(イコール、サブカルチャーではない)を敵視している、という対談の前提が、"今でも熱心に"なのか"かつて○年くらい前までは"なのか、よく分からない。気になるので、3回以上は引っ張ってくれるな(笑)。もっとも前提は置いといて、命題である「オタクが何故、(カッコつきの)サブカルを敵視する(していた?)のか」は、今でも面白いテーマだと思う。特に、オタク前史についての頭の整理に役立った。
 80年代初期までは(カウンターカルチャーと同義に近かった)サブカルチャーといっしょくただったアニメ・マンガのファン層が、オタクの好きな要素がてんこ盛りの「マクロス」TV版(82-83年)を一つの分水嶺に、一部のファンが「ある時期から、「イケてない人たち」へとズレていったのか」(森川)。話は、コミュニケーション能力がないと勉強が出来ても学校のクラスや会社の中で認めてもらえず浮いてしまって幸せになれない環境が80年代の中頃から発生してきて運動も苦手だから文化部活動の中に居場所を見出して……、というふうに続く。この流れにおいて、サブカルチャーの発生(というか米国からの輸入)、オタクの発生(というかサブカルチャーからの分化)は説明されたが、サブカルの発生はまだ説明に入っていない。おそらく、オタク側からある意図をもってサブカルチャーという集合を見た場合でないと「サブカル」という対象が浮かんでこない、からなのだろうけど。オタクから「サブカル」と揶揄される対象は、自分らを「サブカル」だと思っているのかな。宗派対立というほどはっきりと目に見える宗派として「サブカル」が認識しづらいのだけど。もしくは、「サブカルの中で、イケテル系とイケテナイ系が分離しただけ」とすれば、モテてる「サブカル」はモテてない「オタク」の声はやっかみとして切り捨てて取り合う必要を感じない、のか?



 ところで、「サブカル」という言葉が頻出して最近、面白かった文が、ユリイカ最新号の安彦良和×更科修一郎の対談(一応、更科がインタビュアーという形になってるのだけど、更科の意見を積極的に安彦が求めていて更科もそれに応えているので、編集部が要所で合の手の入れる対談といったほうが正確)。
 ここで、90年代後半に一時流行った、「ガンダム・センチネル」「G20」などのガンダムサブカル化して楽しもうという試みがぽしゃって、それを求めいてたファン層がアニメ版の「攻殻機動隊」や「エウレカセブン」へ流れたという指摘を更科がしている。そのファン層を、「『ガンダム』の手法を下敷きにして、そういうポリティカル・フィクションを作る人たち」として「オタク右派」と名付け、「緩い流れに乗れない人たち」「「本物のオタク」を目指さなきゃいけないという強迫観念を持ってい」る、と表す。
 ポリティカル・フィクション好きな危うい「オタク右派」は、自分らこそオタクの中のオタクを任じるに値する、その可能性を秘めていると思っているとして、しかし、多数派である屈託のないオタク(「ORIGIN」読者に代表されるファースト・ガンダム支持派)から見ると、「オタク右派」こそオタクの中に密かに潜む「サブカル」に位置付けられる……、といったところか。
 「オタク」が「サブカル」を嫌ったように、「オタク右派」が「オタク」をくさすことで、「オタク右派」から見た「オタク」の新たな蔑称(!)が生まれてきたりするのかね。おそらく力関係が「オタク」vs「サブカル」とは逆になるから、生ませようとしても難しいかもしれないけれど。