ケータイマンガ品評 メモその4 ― 六田登「ビリー・ザ・キッド 21枚のALBUM」とケータイマンガ演出のこれから



語り部は、愛用の銃。14歳の頃、アウトローの道に入るきっかけとなった、パット・ギャレットから渡された銃。そして、21年間という短かい彼の人生にパットが終止符を打った第1話から、物語は幕を開ける。





単行本の発売を心待ちにしていた理由は、初出となる「ケータイ★まんが王国」配信版との比較が可能になるから。
ケータイマンガ版の演出は、アールアールジェイという会社に外注され、赤間春佳という女性が請け負っている。ケータイマンガ完全ナビの24ページの説明によると、京都精華大学マンガ学科の学生で、客員教授を務める六田「自らがマンガ論を叩き込んだ」という。赤間の名前はケータイマンガ版の最後で、編集担当の加藤恵という名前とともに「モバイル演出」担当としてクレジットされている。
編集者や演出担当者のクレジットがなされているのは、ケータイマンガで読むために書き下ろされた作品という理由が一つと(現状のほとんどのケータイマンガは紙媒体版からの移植のため、そのようなクレジットは皆無に近い)、「編集」と同じくらい「モバイル演出」という仕事を、作者の六田や「ケータイ★まんが王国」を運営するBbmfが重要だと捉えているからだろう。また、わざわざ演出を外注に出している点からも、それが言えると思われる(なるべくなら演出などに余分なコストをかけないほうが利益を出しやすいはずだ。少なくとも国外より海外に出したほうが安い)。



演出は、セルシスが販売する「BookSurfing」という電子書籍作成ソフトによって行われている。9/29時点で600以上の携帯電話向けサイトが採用しており、今のところケータイマンガ市場のシェア率は圧倒的といっていい。
バイブ、吹き出しの拡大、ズームといった演出が行え、「Effector Neo Ver.1.2」という拡張機能は約80パターンの画面転換効果に対応する。
多くのケータイマンガでよく使われている演出は、実写やアニメやゲームでよく見られるものと共通するものが多い。
たとえば、コマの形状・大きさがケータイの画面で表示しきれない場合は、

  • パンダウン、パンアップ
  • 右パン、左パン

などがよく使われる。コマ単位に切り分けず、ページ単位で取り込んだものを表示する場合は、斜め方向へのパンも頻繁に使われる。
また、コマを順次切り替えていく一般的な表示方式では画面転換が単調になりやすいため、次のコマが「上から落ちてきたり」「右から差し込まれたり」「画面中心から同心円状に拡大されたり」といった演出も、よく見られる。約80パターンある画面転換効果のおよそ50前後が、「Aコマ→Bコマ→Cコマ→……」というコマを切り替えるためのものであることも、演出としてよく見られる理由の一つになっていると思われる。





先に述べたように、「ビリー・ザ・キッド 21枚のALBUM」は、ケータイマンガ版として配信されるため書き下ろされ、その後、単行本として紙媒体で発売された。“マンガ雑誌→単行本→ケータイマンガ”という、よくある発表の形とは異なる。そのため、一般的なケータイマンガの演出に比べれば、幾分“凝った”演出が見られる。
“凝った”演出の背景には、六田自身がケータイマンガの将来性に着目していること、配信会社のBbmfがケータイマンガ市場の拡大のため書き下ろし作品を増やしたり演出方法の研究などが必要だと考えていること、演出を行う赤間京都精華大でケータイマンガの演出について学んだこと――などがあると考えられる。



参考として、ビリーが縛り首になった母親の元へかけつける第7話「Story.7 スターダスト」の演出を見てみる。単行本では計18ページ=68コマ、ケータイマンガ版は計100画面(1,504KB、40P=約40円)の話になる。
他のケータイマンガに見られない演出は、大きく分類して、

  • ① ズームアップ、ズームダウン
  • ② 写植の位置
  • ③ 絵の「加工」 

の3点になる。



①は、正確には、「BookSurfing」の演出機能の一つとして標準搭載されているにもかかわらず、他のケータイマンガではほとんど確認できていない、という意味になる。
15ページ1コマ目は、第7話のクライマックスシーンとして、母親を縛り首にさせた町の有力者に向けて銃を撃つビリーの鬼気迫る一瞬の表情が、真正面から描かれる。ケータイマンガ版では、このコマを素早いパンアップで表示した上で、ビリーの右目に「ズームアップ」しながら、15ページ2コマ目の着弾シーンを画面を同心円状に拡大させて切り替える、という演出を行っている。
もっとも印象的なシーンを例にとったが、このほかにも「ズームアップ」「ズームダウン」の演出が何度か利用されている。また、同じくBbmfからケータイマンガとして書き下ろされている「ゾンビ少女」(ヒロモト森一、編集:佐野征司、モバイル演出:秋山えり)の第1話でも、1コマの中で“A地点のズームアップ→ズームダウンでコマ全体の表示→別のB地点を再びズームアップ”といった、演出が見られた。
なぜ、他のケータイマンガで「ズームアップ」「ズームダウン」の演出が見られないのか(確認できていないのか)については、はっきりした推測がない。ここぞというシーンで使える演出スキルが広まっていないからではないか、という曖昧なものしかないため、今回はこれ以上触れない。
ちなみに、例に挙げたシーンは、15ページ1コマ目のパンアップに「二段パン」(アニメ「あしたのジョー」のボクシングシーンで出崎統が多用した「三段パン」などが有名)を使ったり、3発の着弾を1箇所ずつ拡大表示して最後にコマ全体を表示するという、1コマ(15ページ2コマ目)を都合4回も表示する演出がされており、その意味でも“凝っている”と言える。



②は、ケータイマンガ版と単行本で、タイトルやト書きの位置が異なることを指している。
単行本1ページ目1コマ目は、ページの上半分を使った満点の星空の絵に、2つのト書きで「ありふれた/言い回しだが/夜空に満点の/星が瞬く…」「星々は/撒き散らした/砂漠のように/夜空をすき間なく/埋めつくす」と、話数タイトルで「「Story.7 スターダスト」が配置されている。ト書きは右上と左上、話数タイトルは右下の配置になる。
一方、ケータイマンガ版では、2つのト書きと話数タイトルは、いずれもケータイの画面中央で、3度の画面転換効果を用いて表示される。話数タイトルの表示では、単行本で表示のない「ビリー・ザ・キッド 21枚のALBUM」という作品タイトルも同時に表示される。
このような場合、他のケータイマンガでは、コマの上を「右上」→「左下」→「右下」とパンさせて、ト書きと話数タイトルを表示させる演出が一般的にとられる。なぜなら、すでに紙媒体で発表されたマンガに演出の手を加えるため、写植の位置の変更が出来ない(あるいは変更に余分な手間がかかる)。そのため、パン演出による表示が基本的に選ばれやすい。
が、この場合は、まずケータイマンガに書き下ろされている。だから、写植の位置の変更がしやすいし、また、必ずしも紙媒体において理想的な写植の位置に倣う必要がない。できうるなら、ケータイマンガで読みやすい位置に写植をもってくるほうがいい。
そして、ここで行われている2つのト書きと話数タイトルの表示の演出は、仮にパン演出された場合と想像・比較して、明らかに読みやすい。
ちなみに、講談社コミックプラスで配信されている「ママはチャイドル!! 温泉ロケで☆大乱行(2)」(おがわ甘藍)などは、ケータイマンガで最初に発表されているにもかかわらず、タイトルや作者名、煽り文句は完全にマンガ誌の基準で配置されている。また、講談社作品のほとんどが採用するページ単位の表示形式のため、頻繁な画面移動が行われて非常に読みにくいものとなっており、「ビリー・ザ・キッド 21枚のALBUM」と比較対象しやすいと思われる。
また、付け加えると、1ページ目1コマ目はページの上半分を使った大ゴマだが、一枚の絵として見た場合は単調な星空が広がるだけのため、ケータイマンガ版はコマの左右をばっさり切り落として表示し、余分なパンを入れることを避けている。このように、ページに与えられた本来の情報量を削ぐような演出は、たとえそれが可読性を高めると思われても、確認している範囲で現状においてほとんど行われていない(おそらく機械的に演出したほうが楽でコストもかからないからだろう)。



③は、コマの左右を切り落とすような演出を、さらに一歩進める形で、絵の加工にまで広げている。
たとえば、5ページ目1コマ目では、絞首刑台の上で母親の死体を抱きかかえるビリーが描かれる。絞首刑台は画面の1/4ほどの大きさで、残り3/4は土の地面やビリーが乗ってきた馬が占めている。
このコマで、絞首刑台の拡大表示から、「ズームダウン」でコマ全体を表示した後、周囲の地面や馬を黒ベタで塗りつぶす演出を行っている。唯一の肉親である母親を殺されたビリーの孤独と絶望を、黒ベタの暗黒に浮かぶ絞首刑台、へ加工することで、さらにひき立てようとする試みがされている。
また、7ページ2コマ目では、母親の亡骸を抱えて泣き叫ぶビリーの頬に、ボタンを押すと(元の絵にあった)涙を表示させており、パラパラアニメの動画効果のような演出を狙っている。
11ページ4コマ目では、ビリーの泣き声を聞きつけ、絞首刑台を調べにきた町の有力者が、気配を感じ振り返った次のシーンとして、暗闇に覆われたメインストリートの絵が表示される。これも7ページ2コマ目と同様、加工された絵から徐々に元へ戻していく演出で、ボタンを押すと、メインストリートの真ん中に亡霊のような姿のビリーがドットで浮き上がる。ビリーを消した最初の絵は、姿があるはずの空間を黒ベタで塗りつぶしている。
注意しておきたいのは、この黒ベタは、5ページ目1コマ目のビリーの孤独と絶望を具現化した黒ベタとは異なり、実際の暗闇を表す黒ベタになる。しかし、②で触れたよう、この日の夜は満点の星空であり、実際に、濃いスクリーントーンを貼ったりホワイトを散らすことで、深い闇の日としては描かれていない。よって、本当なら黒ベタにせず、もっと光源を意識した処理をするべきということになる(たとえ演出が面倒くさかったとしても)。
が、11ページ4コマ目の構図には、読者のほかに、振り返った有力者の視線が重ねられていることを意識した場合、この黒ベタの演出は“アリ”になる。まだ姿を確認できていないものの、聞き覚えのある泣き声に、あのビリーが戻ってきたのでは……と、有力者は恐怖と焦りを感じており、そのマイナスの感情が、星空の夜の町を暗闇に見せる。読者にはさらに、ストリートの奥に潜むビリーの孤独と絶望が滲み出し、闇を深めているという“読み”を与える。



①②③のほかにも、他のケータイマンガにほとんど見られないような細かい演出は少なくない。
ビリーの顔のアップの12ページ1コマ目は、③で触れた11ページ4コマ目の上に重ねる形で表示され、カットイン効果を生じさせている。
パンの方向は、足を踏み出すコマなら上→下、有力者がホルスターから銃を引き抜くコマなら下→上、ビリーが右向きに手にした銃のコマなら左→右、といった具合にきちんと選択がされている。
ビリーが有力者を返り討ちにしたことに、窓から覗っていた町の住人が驚愕する顔は、単行本の16ページ2コマ目で5人分が一度に描かれている。一方、ケータイマンガ版では、5人分それぞれを切り替えて表示し、本来ならありえない事態であることを単行本より強く伝えようとする。あるいは、5人の顔が単なる脇役顔にとどまっておらず、それぞれに個性的なため、切り替えて表示するだけの価値があると判断しているのかもしれない。





長々と述べてきたのは、システマティックに切り張りしただけのケータイマンガが目立つ現在の市場においても、力を入れた演出は存在するということを確認しておきたかったからだ。
単行本で改めて読んだところ、六田はケータイマンガとして演出しやすいようなコマ割りや作画を、意識しておらず行っていない。従来通りのマンガの描き方を踏襲している。このことは、演出を請け負う人間の力量と根気が大きなウェイトを占めており、六田も一定の改変を許す協力体制をとっているということを意味するだろう。そのようなケータイマンガの配信体制も現にあるということだ。



ただし、このようなケースは、六田や赤間やBbmfやアールアールジェイといった複数のプレイヤーが積極的に関わっているからこそ、可能になっていることでもあるだろう。
書き下ろしでないなら(単行本化で利益を出せないなら)、赤間が学生でないなら(自活できるだけの演出料を払う必要があるなら)、どうなのか。
紙媒体からケータイマンガへの移植をセルシスに依頼した場合、「紙芝居/ベクタースクロール」なら1ページあたり800円から、「ラスタースクロール」なら1ページあたり500円からだという。計18ページの「Story.7 スターダスト」なら通りいっぺんの演出で、最低9,000円からということになる。アールアールジェイと赤間の手を借りた演出に幾らをかけているかは分からないが、他のケータイマンガでも同じくらい“凝った”演出をしていては、おそらく採算が合わない可能性が高いのではないか。
2008年3月末時点のタイトル数(サイト間の同一タイトル重複を除く)は、PCマンガが約3万8,000、ケータイマンガが約2万で、ケータイマンガの1/9程度の市場規模しかもたないPCマンガのほうが、タイトル数では2倍近い。極端にはページをスキャンするだけでいいPCマンガに比べて、ケータイマンガは演出にコストを要するため、そのような逆転が生じていると思われる。



赤間の手によるような演出が他のケータイマンガに見られていない(それだけの余裕がない)のなら、「BookSurfing」は演出機能を豊富にする方向へバージョンアップしてもあまり意味がないということだろう。少なくとも、現行の機能をフル活用しなくても、市場は拡大を続けていけるようだ。今のところは。
手をつけるとしたら、制作フローの単純化、自動化になってくる。が、それが可能なのか。
赤間の演出のノウハウを、他のケータイマンガ作品に応用するだけのマニュアル化は可能なのか。マニュアル化とは自動化、普遍化ということだ。しかし当然ながら、作品によって理想的な演出は千差万別になる。そうなるとマニュアル化はしにくい。
個人のセンスや作家の協力的な姿勢によるところが大きい場合、ケータイマンガが面白くなっていくスピードは鈍いものになるかもしれない(もちろん、それ上回るほどの技術革新やiPhoneのようなスマートフォンの急速な普及が進むかもしれない)。



確認しておく。コストが見合いそうにないから、あくまで特殊なケースだから、「ビリー・ザ・キッド 21枚のALBUM」のケータイマンガ版に意味を見い出さない、ということではない。課金システムの完成度に支えられた過渡期の媒体である。