12/15、青少年健全育成条例改正案が可決された。


何から書いたものか。
このままではすまさん、という思いばかりがグルグルと巡っている。
もちろん、人の道、法の道を踏み外さない範囲で、だけれど。
出来ること、使えることは、可能な限り、やってみることが大事だと、改めて思う。


1年後、5年後、10年後、今日の可決を振り返ったときに、今日がどういう意味での分岐点(あるいは出発点)になったのか、そのことを理解しやすいように、無理にでも書き留めておいたほうがいい。
そう思うので、とりあえず書き始める。



今日の都議会本会議を傍聴した。
13時、開始のところ、その10分前ほどに、都議会庁舎2階の傍聴受付までいくと、「……券はもうないので、ロビーのテレビ中継を見ていただくか……」と説明する男性職員の声が聴こえてきた。受付の机にいくと、議案一覧などの資料もなくなっていると言われた。
それでも、議場の周囲をぐるりと囲むロビーからガラス越しに中を見られればと思い、7階まであがると、2箇所あるガラス越しの傍聴コーナーも、最前列、第2列まで人だかり。一段、高くなったコーナーの減りに足をかけ、伸ばした手でガラスの上の壁を支えながら、開始を待った。


本会議で共産、生活者ネット、民主、自民、公明が述べた意見は、ネット中継で流れた通りだから、繰り返さない。
公明の男性都議が、よく通る野太い声で「……6月に提出された改正案と(今回の改正案の)本質はなんら変わりないもので……」という内容を読み上げたときに、(じゃあ、何で前の問題点が解消されたような報道や説明があんなに行われたんだ?)と震えたが、鼻からずっと賛成してきた公明にとっては、それこそ望むところであって、そういった報道の経緯の齟齬などどうでもいいことなんだろうと、沈めた。
それとも、本質が何も変わっていない改正案に対して、6月の否決から一転、付帯決議つきとはいえ賛成に転じた民主会派に対する、最大限の皮肉かもしれない(意図的したものかどうかは知らないが)。


ガラスの前にいる傍聴者の皆、若い人たちがほとんどで、女性が半分くらい。
若い人、20歳代前半〜中盤、そして女性がこれだけ注目して、実際に足を運んでるとはいうのは、この先、長期の働きかけを考えていくとき、すごく心強い。
本来、13日の総務委員会ですでに99%の結論が決まって、わざわざ足を運ぶ必要はないのに。ゆくゆくのために、数の力を印象づけるために傍聴しておくという戦術にのっかったのが半分、いてもたってもいられずというのが半分、そういったところだろうか。
自分も、別に、無理をして傍聴しなくてもいいつもりでいた。
けれど、それが出来る余地があるならやっておこうと。民主会派が起立した議場をこの目で見ておこうと思った。


共産、生活者ネット、無所属が座ったまま、可決が行われ、ガラスから離れて一息ついていると、ガラスに張り付いていたソバージュの女性が、突然、どうにも我慢できないというようにドタドタと足を鳴らしてロビーの階段を降りていった。それから5分ほどで自分も階段を降りていったが、予算関係の説明に入ってもほとんどの人がガラスに張り付いたままだった。先週の月曜の中野ZEROの集会で、会場の中には入れず、ロビーで立ちっぱなしの状態で14型テレビの中継を見入っていたのと同じ光景。


どこかのテレビ局のカメラが、ガラスの前に集まっている自分たちを後ろから撮っていったので、そのうちどこかの局の番組企画の中で使われることもあるかもしれない。



5年前の夏の郵政選挙でコイズミ自民党が圧勝したとき、2-3年後には憲法改正までいくんじゃないかというくらいの暗い気持ちに襲われて、テレビの開票速報をいっしょに見ていた友人と「海外脱出の準備したほうがいいな」と冗談交じりにいいあったことがあった。
それから5年経って、首相が何度も代わり、政権党を取った民主がジリ貧になりつつある。予想できない5年後をすごしている。
1年後の東京都の書店が、出版社が、作家たちが、どうなっているのか、誰が都知事になっているのか、同じように予想だにできない。


やれる範囲のことをやることは変わりない。



先々週に文京シビックであった出版労連の集まりで、「マンガはなぜ規制されるのか」を上梓した長岡義幸さんは、今の不健全指定制度を中心とした自主規制の仕組みを、「自主規制路線の成れの果て」と評していた。


1964年に都条例ができて、その後、何度もの改正を経て、そのつど、出版側はちょっとずつちょっとずつ後退をしてきた。端的には「負け」てきた。自主規制をちゃんとやりますからという説明と取り組みによって、決定的な規制を回避してきた。妥協とすり合わせで実を取ってきた(というふうに考えてきた)。実際、マンガの市場規模は数千億円にふくらんだ。


けれども、6月の改正案否決で、流れは変わった。出版側が初めての「勝ち」を得たことで。
でも、歴史に刻まれる「勝ち」の代わりに、「自主規制路線の成れの果て」という危ういバランスをこれ以上、続けることは難しくなった。都と、知事と副知事と、警察庁の出向者で固められた治安対策本部に、これまでで一番明確な反旗を翻したということだから。
「今回はこのあたりで何とか収めておきましょう」といった、持ちつ持たれつは、難しくなった。
雑協などに加盟しないアウトサイダーの作品を指定して、メインストリームの被害を最小限に抑える手も、難しくなっていく。
いい感じの「落としどころ」として利用されきた、わいせつ罪で前科一犯を持つ松文館の本は、連続指定の末、昨年末に自主的な廃刊が行われ、新たにめぼしい候補を探す必要がでてきた。
必要がでてきていたところで、都側と出版側が改正案をめぐって決定的とも言える決裂に6月、至った。
6月に「勝ち」を得て、ガチンコ勝負に切り換わった。


ガチンコ勝負での譲歩は、つぶされるだけに違いない。
刷り合わせの道はなくなった。
だから、治安対策本部は「非実在青少年」を削除しただけで年齢制限を撤廃し、同性愛や不倫などを想定したもっとひどい改正案を提出し、出版側はアニメフェアをボイコットした。
「成れの果て」で譲歩しても、その先には崖下しかないから。


改正案が通ってしまったその日に、出版側は、

私たちは、この条例改正に今後も断固とした反対の姿勢を貫くとともに、平成23年7月の施行を見据えながら、さまざまな機会を捉えて行動を起こしていく所存です。

http://www.jbpa.or.jp/pdf/documents/rinri_kougi20101215.pdf

と表明した。


これまでなら、通ってしまえば、それに沿った対応を急ぐのが通常だった。
今回は、まだガチンコが続く。



商業の一般マンガの感想は、当分書く気がおきないだろう。だって、そのマンガを面白くないと感じたとしても、作家の努力や才能や編集の努力や才能ではなくて、都条例に配慮したせいかもしれないのに。ジャンプやモーニング2がいくら「面白ければいい」「面白ければ載せる」といったって、萎縮は絶対に起きる。
萎縮をせずに済むようにするには、都民や読者が、都と治安対策本部と審議会に常にプレッシャーを与えるための意見と抗議を働きかけていくしかない。出版に睨みを効かせようとする都側に、都民が睨みを効かせて相殺していく。



18歳未満に売らない、完全に18禁の作品をつくっている制作者側で、「ある程度の規制は必要」という主張がちらほら目に入るのが気になる。ある程度の線引きを誰がするのかという考えにぱっと至らないのかもしれない。自分には、一般作品がエロを売りにするようになると18禁作品のシェアを脅かす可能性があるから商売敵を自重させたがっているようにも思える。ある程度の規制が入れば、相対的に18禁作品の市場価値が高まるとでも思っているのだろうか。ある程度の規制が入った後は、もっと踏み込んだ規制がはじまるものだということが想像できないんだろうか。区分陳列などのゾーニングだけでは不十分だからという理屈で、エロそのものも手をつけてくるに決まっているのに。



都に対する働きかけを続けていく必要がある。
青少年健全育成審議会の公開をさせる。
候補図書の決定手続きの見直しをさせる。審議会メンバー選考の公平性・透明性の確保、不健全指定における多数決の導入。あるいは審議会の開催のための予算や候補図書の購入予算の凍結をさせる。
それから青少年治安対策本部の解散、もしくは警察庁からの出向受け入れの中止。
民主・共産・生活者ネット無党派へのロビー活動の継続も必要。
改正条例を、来年の都知事選で争点化させること。これは誰が出馬するかでも変わってくるけど。
メディア(新聞、テレビ、雑誌、WEB)への働きかけの継続も。


裁判所に違憲訴訟を起こすのは、人とカネのコストが膨大で難しいだろうけれど、運用に一定の歯止めをかけるという意味では、分かりやすくて効果的だと思う。もちろん、そういった動きが実際に起こってくれば、協力を惜しまない。



来年7/1施行日までが、歯止めをかけられるかどうかの一つの区切りになる。