この世界の片隅に(監督:片渕須直)

    • 遅ればせながら、正月、帰省先の映画館で。
    • 原作は未読。
    • 変に長くなったので暇な人向けです。
    • 10年前、まさか泣くことはないだろうと余裕の心持ちで臨んだ「ロッキー・ザ・ファイナル」でだだ泣きしてしまってから(http://d.hatena.ne.jp/bullet/20070415#p1)、涙もろくなったものだなぁという自覚はあるので、比喩でなくタオルハンカチを手に席についた。
    • 最終的に泣いた。やはり泣いた。けれど、それはエンドロールに入ってからだった。泣いてしまい、スクリーンがかすんでしまうのがイヤだったので我慢した。我慢を保てたのは、もうそこここで語りつくされているだろう、ち密にこだわった画面づくり(キャラクターの所作や描かれる呉の生活感)と、徐々に物語を覆っていく戦時体制の影がとても、とても、肌に感じられたから。
    • 12、13年ほど前、テキストサイトやブログの書き手の間で、任意のジャンルから好きな5作品をあげて、別のテキストサイトやブログにトラックバックを投げて、5作品をあげさせるという、チェーンメール的な遊びが流行ったことがあった。
    • まだブログをはじめて2.3年ほどだった自分のところにも、もの好きなテキストサイトの主(小説家の卵のような方だった)から指名が入った。が、個人的にチェーンメール的な仕組みが好きになれなかった自分は、別の人を指名するのは断ったうえで、指名してくれたことへの純粋なうれしさを表す意味で、メールでその人に5作品の返事をした。
    • 自分のそれまでの人生を5年区切りにして選んだマンガジャンルの5作品は、
    • だった。
    • 新作のマンガを浴びるように読んで、常に刺激を求めていた当時(今もだけど)、指名を踏まえて、どのマンガが自分を形づくってきたのだろうと改めて考えてみて、始まりは「はだしのゲン」だったと、この時に自覚した。
    • 主人公の弟にクリソツなサブキャラクターが登場して以降の、ピカレスクマンガとしての面白さが「はだしのゲン」の魅力の一つだと思う。ただ、作品の根っこにあり、自分に原初の衝撃を与えたのは、ガラスの破片だらけ、両の指先から溶けた皮膚をだらりと垂らし、眼球の落ちた黒い窪みが強調された顔面、彼ら彼女らがぞろぞろとはだしで行進し、水を求めて川に落ちていく、その……今読み返すと地獄としかいいようがない描写だった。
    • 何かと相対化するとか、ちゃかして衝撃をやわらげるとか、そういったテクニックをもたない子どもには、ショックだった。だったが、その後も何度も繰り返し読んだのは、その地獄絵にあらがいがたい何かも感じてしまっていたから。
    • ただ、大人になってからは、再読することをあえて避けていた。その絵の力を、純粋に目にすることを恐れるようになっていたと思う。
    • 最後の最後、すずと旦那の周作が訪れた、ピカドンが落ちた後の広島。すずがスケッチした焼け溶ける前の県産業奨励館。それを見ていた母子が、ぼろぼろになって焼け野原に座り込んでいる。母の右半身はガラスの破片だらけ。動きのない母を子がゆすると、母の耳の穴から蛆虫がぞろっとこぼれた。
    • 不意打ちだった。避けていた「はだしのゲン」を目の前に突きつけられ、逃げ場はなかった。
    • ピカがもたらしたものの(直接的な)描写は、それだけ。それだけなのに、それだけだからこそ、今もずっとひきずっている。
    • すずは可愛い。可愛くてせつない。哲にアンカをもっていったシーン。せつない。右手をなくし、その後、左手でスケッチをしようとチャレンジするシーンはない。せつない。母の右手に山と突きささっていたガラス片。すずのない右手にすがろうとする子。せつない。のんって役者、すごいね!
    • 玉音放送。「終わった終わった」とラジオの前をさっさと立ち去った義姉の径子が、右手といっしょに消えた娘のために家の裏で泣く。すずは、戦時体制を強制していたものに対して、初めて怒りを表に出す。押し殺していた意思をいきなり解放されて。戦後はまだ遠い。戦時でも戦後でもない、総合格闘技における際の攻防のような、どんな状況にも転がっていく、不安で緊張を強いられる状況への解放。背中がじっとりした。
    • 原作に沿った手触り感のある絵。 鉄の塊なのに、ち密な考証を経たうえで、手触り感のある大和。が、牧歌的というんではない。すずの嫁ぎ先の家を襲う焼夷弾、道端に転がり出たすずを狙う機銃掃射はとことんリアル。
    • 対して、時限爆弾の埋まった穴は、あっさりして見えた。人を殺す意思をもった穴には見えなかった。けれど、というかだからこそ、晴美とすずの右手を吹き飛ばす。
    • 上映終了後にカウンターで買ったパンフレットで、監督が語っていた。7年前に監督した「 マイマイ新子と千年の魔法」の新子の母親は、「たった10年遡るとモンペを穿いてて、戦争中に身重になって、大変な思いをしていたはず」と。
    • 7年前、いつ打ち切られるかという状況の中、滑り込むように観た「 マイ新」は、自分のいろんな現体験とかろうじて地続きだった(http://d.hatena.ne.jp/bullet/20091221#p1)。では、すずの戦時は自分と地続きでないかというと、地続きだと頭では理解しても、脊髄を通して体感をできるほどの地続きとは胸を張って言えない。それが不安に思えた。
    • それが、監督の言葉で、つながった。安心できた。「片隅」を観て、うれしかったことの一つです。