武士道違い

 過去日記の掘り返し。


 1/11の日記(http://d.hatena.ne.jp/bullet/20050111#p1)で、野田敬生氏の「 ESPIO: (仮説)“ラスト・サムライ”という対日工作」なるエントリについてあれこれ雑感を書いていたが、それとは無関係にさきほど「菅野覚明『武士道の逆襲』」紙屋研究所の案内図)という書評を読んだところ、1/11の雑感の前提の一部が、そもそも間違っていたようなので書いておく。

 1/11の日記で自分が書いてる

で思ったのは、「新撰組!」が1年はやく放映されていたなら、武士道じゃやっぱり勝てないな、ということで、自衛隊派遣問題に影響を与えたのかどうかということだが。

 という幕末武士道は、『ラストサムライ』が手本にしたらしい、1904年の日露戦争時に書かれた新渡戸稲造の『武士道』とは、あきらかに異なるようだ。
 紙屋研究所の案内図では、管野氏の考える武士が存在した時代の武士道を、

精神主義的道徳とは無縁な究極の軍事リアリズム、および、あくまで私的情を媒介として「私」に生きるエゴイズム

 とまとめている。
 イラク派遣部隊現場トップの番匠幸一郎一等陸佐が言い放った武士道は、おそらく明治武士道、新渡戸武士道を念頭においた武士道だろう。
 想定するべき武士道の種類がまったく異なっていたようだ(まぁ、切腹以外に、現在一般的に思われてる武士道らしい武士道が見当たらなかった三谷「新撰組!」を持ち出してる時点で、半分以上は冗談で書いてたわけだが)。


 手本にしたらしいと書いたが、対日宣伝工作と野田氏が言う「ラスト・サムライ」で描かれた武士道は、戦国武士道なのか、徳川武士道なのか、明治武士道なのかについては、自分が1/11の日記を書く際にもとにした「ESPIO: (仮説)“ラスト・サムライ”という対日工作」でコピペされてる2003年12/13の東京新聞記事「『ラスト サムライ』日米で共感 反響呼ぶ“ハリウッド製日本映画”」に、

監督のズウィック氏は、十七歳の時に黒沢明監督の「七人の侍」に魅せられて以来、日本の歴史、文化を研究してきたという。トムも新渡戸稲造の「武士道」を繰り返し読んだ。取り組む姿勢はなまはんかではなかった。
ただ、一歩引くところがあるとすれば、その後の日本の歴史で武士道が軍国主義に利用された側面があることを私たちが知っているからだろう。

とあるので、新渡戸武士道でよいのだろう、という判断をしている。


 だから、映画のラストで、領地の家族をおいてきぼりにしたまま、精神主義に貫かれた新渡戸武士道の考え方にもとづいてガトリング砲に突っ込んでいく渡辺健たちという絵はありえない。あの時代にはまだ、新渡戸武士道はなかったのだから。結果的に突っ込んでいく状況は当事ありえたかもしれないが、もっと別の事情や思想でそれは起こるべきことだったろう。
 映画では渡辺健が明治天皇に忠誠を貫いていたが、あれも、日露戦争時代の軍人ならともかく、幕末の武士がそうだったのかと言えば、なんだかうそ臭く思えてくる。

 もちろん、別に、その時代の生死観や生き方観にきちんと裏打ちされた戦国モノとか江戸モノとか幕末モノであるべきというほど、杓子行儀なわけじゃあない。ホモホモしい「ピースメイカーくろがね」も、山南を逃がそう逃がそうとしていた友情感溢れる三谷解釈の「新撰組!」も、大好きだ。
 ただ、『ラストサムライ』で描かれた武士道を幕末当事に存在しえた武士道だと疑わずに観る(自分もそう思って観ていた)のは、おかしいことだったのだな、と。映画を自腹で観てこき下ろすコーナーが人気の映画監督が、『ラストサムライ』については確か“日本以外の国にこんな本格的なサムライ映画を先に撮られてくやしくないのか”といったようなことを言っていた記憶があるので、その映画監督も武士道に関しては新渡戸武士道がお気に入りだったんだろうが、どうせなら“あんな武士道は幻想だから、俺がホンモノのサムライ映画を撮ってやる”くらいのことを言ってくれてたほうが、当事素直に賛同できたかもしれないなぁ、と今になって思う。


 新渡戸武士道を忠実に描いたらしい『ラストサムライ』は、新渡戸の『武士道』が日露戦争の勝利を説明することに利用されたのと同様に、野田氏が主張するようなイラク派兵後押しに利用されたように見えたりするわけで、利用のされ方としては、過去のそれをなぞっているだけで単にそのまま、ということも言えるわけなんだけど。