今日は雑感で省エネ

 ユリイカ9月号を読みながら。三浦靖冬に「マッチ売りの少女」(原作:野坂昭如、作画:水木しげる)をリメイクさせたい。寂寥感をまったく削いだ話を、三浦は一度、描いてみてもいい。



 新宿書店の神保町店で新刊を物色。息せき切って駆け込んできたオレンジの髪の若い男が「アドベントチルドレンのDVDあります?」と店員につっかかる。エロ本とエロ写真集とエロ小説とエロマンガとエロ同人とエロDVDしかない店に、何をすがるのか。



 ひさしぶりに買った阿吽10月号の読者欄「阿吽のすきま」で、まるオレ、と、曾都毘古、と、袋野ねずみ、がまだ投稿し続けていたことに小さくない感動。3人とも7年以上前からの常連であるという記憶。23 ケ、ニ、で応募しとくか。



 ノンフィクスナックルズ Vol.3。漫画雑誌編集者匿名座談会。まとめ方が“つくり”っぽい。「NANASE」を狙ってたマンガ家達が「メイキャッパー」が乗り出してきた途端、みんな逃げてった、ってのは笑える。自衛隊信者獲得に走る顕正会というネタ。前に勧誘されたことがあるが、ホントに「信じないと地震くる もうすぐやってくる大地震から絶対に助からない」って言うから、驚いた。しかし、どうにも記事全般にネタが疑惑止まりで、オチというかインパクトがいまいち。せめて隔月じゃなくて月刊で出してくれ。



 http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.asahi.com/international/update/0913/014.html
 あー、なるほど。コメントを読んで、やっと分かった。アサヒは、「悲劇」として、あるいは「報われなかったいたいけな小さな命」として読んでほしかったわけか。なるほど。なるほど。一日経たないとまったく思いいたらない自分のリテラシー。ハッ! 配信記事じゃないとしたら、アサヒの科学部記者は訓練をしなおせ。



 談 Speak, Talk, and Thinkより。

ところが、その相対化の拠点となるはずのからだあるいは肉体そのものがすでにスポイルされているのだ。現代の生-政治は、からだあるいは肉体を簡単に排除と選別の対象にするようなことはしない。いやむしろ、手厚く保護しようとするのである。殺すのではなく、生かすこと、生かし続けることが、現代の生-政治の管理手法なのである。からだあるいは肉体は反逆の拠点どころか、生-政治における要衝となる。生-政治においては、健全にして健康な肉体こそ理想のものであり、それを徹底させることが生-政治における課題ですらあるのだから。

近代社会の関心はもっぱらビオスであったが、生-政治は、あからさまに生物学的生命であるゾーエーの方により強い関心を抱く。それは、端的に未来の資源となりうるものだからだ。

身体は資源としての価値のみに還元される。そこでは、身体におけるビオス的側面は見事にはがれ落ちてゾーエーそのものと化す。ゾーエーという剥き出しの身体だけが求められるのである。「生きている」ことが、そこでは決定的な意味をもつ。「生きていてほしい」と願うのは、他ならぬ生-政治なのだ。「いのち」が何よりも尊いのは、それが大切な資源だからだとしたら、なんというパラドクスだろう。

一つは、ビオスはゾーエーを新たな価値物として扱い出したこと。二つ目は、生命倫理には二つの顔があり、身体(の資源化)はその両面から分析される必要があるということ。三つ目は、積極的優生論は治療的介入の可能性を開くということ。四つ目は、ゾーエーをいかに引き受けるかということ。

たとえば生殖系列の遺伝子改造もある種の可能性を開くものとして捉え直すこともできる。それは、これまでの凝り固まった優生学批判に風穴を開けることにもつながる。いわゆる新優生学とも目される思考実験が可能となるのである。つまり、こうした思考実験も生命倫理学の範疇だというのだ。

リスクファクターは統計学的にみれば単なる暗数にすぎない。にもかわらず、医学の公衆衛生化という文脈の中で、それが特定できてあたかも取り出せるモノのように扱われてしまったのである。佐藤氏が問題視する「リスクのモノ化」ということを医学はやってしまう。しかも、野村氏の言うように、リスクファクターの選択自体が恣意的な操作によって行われる。特定病因論と確率論という本来ありえない二つの考え方を、強引に結び付けたのが近代医学だというのである。さらに、そうしたリスクファクターをたくさん抱えている(温床)ものが私たちの身体だとしたのだ。



 「俺たちの愛は、金で買える。」ことコメットさん※は、やっぱり「SYMPHONIE NO.3…【Air】」編が、面白いなぁ。キーン、キーン、キングボイナー。