今日の読書――「ダ・ヴィンチ・コード」ボイコット騒動とムハンマド風刺画騒動に見る狭義の教義的解釈


 以上の議論を整理しよう。
 預言者風刺画事件は偶像崇拝の禁止と言論の自由の対立ではない。イスラームユダヤ教キリスト教と同じく偶像崇拝を禁じているが、偶像崇拝の禁止は、ユダヤ教キリスト教の場合と同じくかならずしも、肖像画の禁止を帰結しない。現実の現代のイスラーム世界は、肖像画に溢れており、預言者ムハンマド肖像画すら散見される。
 風刺画がイスラーム世界で問題とされたのは、それが預言者誹謗の罪にあたるからである。しかしイスラームにおいて預言者誹謗が罪であるとしても、そのことは預言者誹謗に対するイスラーム教徒の怒りの反応が、全てイスラームによって説明できることを意味しない。預言者に誹謗に対するイスラーム的対応と呼べるものは、イスラーム法の規定に則った行為のみである。にもかかわらず、風刺画問題へのイスラーム教徒の対応の中で、預言者誹謗へのイスラーム規定について明晰に述べたものは極めて少ない。それはイスラーム法的に支配の正統性を有するカリフの不在の状況下で、イスラーム世界では政治的言論が厳しく抑圧されており、イスラームと政治をめぐる言説に歪みが生じているからである。風刺画問題をめぐるイスラーム世界の対応は、イスラームの教えに基づくものではなく、イスラームの教えからの逸脱、欧米流の「権利の言語」の浸透を反映している。


 カンヌでは失笑が漏れたらしい、実はキリストはマリアとヤッてて今でも子孫が生きてたんだよ!映画への一部キリスト宗派の上映ボイコット運動が報道される中で、昨年、それより遥かに大きく報道されていたムハンマド風刺画問題を頭に浮かべる人は多かったはずだ。
 だが、イスラム圏の人々が何故、北欧の新聞記事に掲載されたマンガにあれほど怒ったのか、そこの実際をちょっと勘違いしている人も多いままだったかもしれない。かく言う自分もそう。

 イスラーム研究家の中田考氏によれば、よく言われる偶像崇拝の禁止は、例の風刺画問題で、抵触をしていないという。これは目から鱗だった。偶像崇拝という言わば「遅れた価値観」を今も有していかねない地域であるという偏見がなかったとは言えない。あるいはそんなのどちらでもよいという関心の低さか。エジプトやイランでは預言者の姿が絵物語などの形で市販されているという。実際いは、預言者の姿を正しく伝えていないことが、逆鱗に触れたという。


 よって、中田氏の論にのっとれば、Wikiの、

偶像崇拝において一番にタブー視されていることは対象となる者の顔を描く事である。ムハンマドを描くこと自体でも十分問題ではあるがその顔を描いた事に対しイスラム教徒は多大な憤りを覚えている。風刺の内容も彼らにとって無論侮辱的ではあるが、それ以上にムハンマドを描いたという事に対し憤慨していると解釈するのが妥当であろう。

という説明は、イスラムの怒りの源の把握を間違えていることになる。



 たとえば大使館へのデモやデンマーク商品の不買運動を起こしたり人権裁判所に訴えたりという、西洋を発祥とする「権利」意識を源とする抗議行動をイスラム圏の人々がとっていたことも、イスラム教の本来の教えから逸脱しており、正しい反論の方法ではなかったという指摘も新鮮。もちろんそのことは、文化植民地としてイスラムの国々が西欧諸国の浸透を受け、一等下に見られている現状、そしてそのことに抗する力を有していないことへの大きな不満がくすぶっていることが背景にあるわけで当然筆者もそのことに触れるが、その文化的浸透に対する見解は、この論稿で出していない。
 論稿の末尾を「欧米は、イスラーム世界の文化植民地化の一層の深化・進展を言祝ぐべきであろう。」と結んでいるが、これが半分以上は皮肉としか思えず、反論の手段としてイランの新聞がホロコースト問題でマンガコンテストを主催したことに触れて欧米にも厳密な意味での言論の自由などはないのだと触れていても、筆者が、あくまでイスラム法的解釈にあてはめた場合に風刺画問題がこういう側面をもっているのだという以上の主張を、どう込めたいのかがよく理解できなかった。