「ドナウよ、静かに流れよ」(大崎善生)文春文庫


 ムカムカしながら、読み終えた。



 日本から遠く離れたウィーンのドナウ川で心中した、ルーマニアハーフの19歳の留学生少女と、自称指揮者の33歳男性。新聞の片隅に見つけたその記事に、強烈な興味をひかれた筆者は、以前いた将棋業界の縁もあって、事件を追う。



 両親や元恋人、友人、現地の知り合いの証言や、FAX、メールの送信記録などから少しずつ明らかになっていく二人の過去は……。



 ……これが、結局のところ、何者でもなく何者にもならずに死んでいった2人、ということのみが、半分は足を使った取材によるディティールで、もう半分は取材から類推した作者の想像による肉付けで、書かれて、おしまい。



 2人に実際に係わった、周囲にいた人間にとっては、大きな後悔のドラマになっているのだろうが、客観的に、この物語(あえてノンフィクションとは言わない)から、何を受け取って良いのか分からないままだった。



 どんなにニッチなノンフィクションであっても、それが誰にとってもムダであるとは思わない。一人でも二人でも、それを求める読者が必ずいる。無駄なノンフィクションはない。ただし、それが第3者である場合に限って。筆者と、心中した2人の関係者以外にとって、これがノンフィクションとして意味をもつ要素が見えない。この作品にひきつけられている人がいるから、ハードカバーで出版され、文庫本としても出されているのだろう。が、筆者のちょっと過剰なまでの私小説テイストが、物語としてのこの作品に第3者をひきつけているように思えてしょうがない。



 どこにでもいた情緒不安定で多感な少女と、どこにでもいた誇大妄想気味の中年にさしかかった男が、ドナウ川に沈んだ。申し訳ないが。それで、どっとはらい


ドナウよ、静かに流れよ (文春文庫)

ドナウよ、静かに流れよ (文春文庫)