1週間かけて丁々発止やった末に渋り続けていた相手をようやく譲歩させ、最後まで残った理由が「生意気言うな」だった。


 ムカツク、なんて感情は沸かなくて。



 どちらかというと「やり方を間違えたな」、と。



 落としどころってものを考えてモノを言うべきだな、と。



 こちらが被ると主張するデメリットが、相手にとっては、それがどうして言うほどのデメリットになるのか分からない。正論で落とせないと気付いて、そこで、搦め手に切り替えたのは、間違い。相手は、譲歩のための理由がもっと多く欲しかったわけではなくて、口に出して言うのが悔しい「生意気だから」という理由を、別の言い方で伝える触媒が欲しかったわけで。それを言ったら、自分の器量が狭いような気持ちにもなるだろうし。



 譲歩を、相手方による自主的な方針の変更、という形でやらせるのではなくて、第3者にあたるクライアントの要求に応えた結果、という形に思えるようにもっていけば、互いにじりじり1週間も消耗戦を続ける必要はなかったろうな。



 そのほうがお互いにメリットが高い、あるいは、譲歩で誰もデメリットは受けない、といった相対的に見たコスト性からの主張も、その過程でこっちが少しでもメリットを享受できるように受け取らせてしまうと、感情のほうが勝る。



 譲歩を引き出す過程で、ちょっとお互いの本音が聞き合えたのは今後にとって良かったのかどうか。結果的に譲歩させたことでこちらの内心は勝利と満足を感じているものの、相手はそんな勝利と満足はありえないと思っているから、もし、自分には別にどうでもいいことで引いてやったくらいでそんなに安心したような顔をしてお安いやつだなと相手が思っていたら、と考えると、そこで不満が生まれている。



 おそらく、今度のような譲歩を要求しなければならないことはそうそうあるもんでなくて、後々、前例として再利用していくようなこともないだろう。譲歩による結果だけがあれば良くて、こういう手順を踏んで譲歩の結果を引き出さなければならない、という理由はなかったのだから、やはり、譲歩させられた、と思わせずに、こちらの内心の満足を引き出す形にもっていく、器用さを高めておく必要があるなぁ。