脳死・臓器移植が抱える闇――教育基本法改定の流れとも連動する改定A・B案(小松美彦氏インタビュー)


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 宇和島での臓器売買事件や教育基本法改正の国会審議を受けて、図書新聞編集部が2006年10月19日に科学史生命倫理学を専門にする小松美彦氏に行ったインタビューの全文。長いが的確な指摘が多いので全文引用した上で引用者による強調を入れる。

――宇和島での臓器売買事件を、どのように感じられましたか。またそれが脳死臓器移植に投げかける問題についてはどのようにお考えでしょうか。

小松:まず、生体移植があまりにも杜撰に行なわれていることに驚きました。腎臓提供者はレシピエントの内縁の妻の妹と称したわけですが、そうした複雑な関係の真偽を病院側はきちんと調べないで摘出手術をしていた。しかもそこに金銭授受の可能性が高い。

 二つ目は、どのマスメディアも未発表ですが、この移植を行った万波誠医師は、臓器移植法施行(1997年10月16日)のかなり前の90年11月に脳死状態(恐らくは正式な脳死判定の前段階)からの腎臓移植を実施したために、警察の事情聴取を受けています。より詳しく述べると、万波氏の弟の万波廉介医師が岡山協立病院で腎臓摘出を行い、その腎臓を使って兄の万波誠医師が宇和島市立病院で移植手術をしたというものです。弟の廉介医師はこの件で東大病院の本田勝紀氏らによって殺人罪等々で告発されますが、検察が98年3月末日に嫌疑不十分で他の7案件とセットで不起訴処分を決定した。

 元日本移植学会理事長の太田和夫氏が自ら公にしていることですが、実は80年代の段階で日本で行なわれた腎臓移植の三十数パーセントは脳死状態からの移植だったのです。68年の和田移植以降、無いとされていた脳死臓器移植が裏では相当数なされていた。太田氏は「法律というのは、基本的に後追いでできるもので、まず最初に事実を作る必要があると法律家にいわれました。私たちが脳死で腎臓移植を始めたのはそのためです。[中略]。心臓移植や肝臓移植をやって事実をつくると大変なことになるので、現在行なわれている腎臓移植で事実を積み上げていったらいいかと思い、実質的には百数十例くらいやりました」(太田和夫ほか「座談会 臓器移植法の成立と今後の臓器移植の問題?臨床家の立場からー」『今日の移植』第10巻第6号[1997年]、805-820頁、引用は818-819頁)と述べています。

 万波誠氏は水面下でのこうした移植を行なってきた人物の一人であり、少なくとも91年の時点で、「ここ数年は脳死と判定された提供者からしか移植をしていない」「すでに15例ほど、他の病院で摘出したものを移植した」(「朝日新聞・大阪版」91年6月11日朝刊)と公言しています。以上のような臓器移植を巡る構造的な問題が、今回の宇和島の事態に繋がったのではないでしょうか。ですから安易に臓器移植法を改定して脳死のドナー数を増やすのではなく、今回のことを刑事事件の枠内で徹底的に追及すべきだし、今こそ水面下での移植の検証にも本腰を入れるべきです。

 しかし実際、生体移植だと様々な問題が起こるから、法改定して脳死臓器移植の数を増やそうという主張がマスメディアを通して多々流れています。世界最大の移植大国であるアメリカは、本人の意思が不明でも家族の承諾だけで臓器提供が出来ます。今上程中の改定A案がまさに目指す形です。それでもアメリカでは臓器不足が言われ、当初は健康な人の体にメスを入れるために忌避されていた生体移植(特に腎臓)が逆に増え、今世紀に入ってからはむしろ生体腎移植の方が、脳死者を含む死体腎移植よりも多くなっている。したがって日本で脳死臓器移植の門戸をさらに開いても、「不足問題」は解消されないでしょう。

 宇和島でドナーとなった方は体調を崩されているようですが、言葉は悪いですが生きていらっしゃるから問題が発覚した。これが脳死者からの例えば心臓移植だったら、それこそ死人に口無しで、完全に闇に葬られる可能性があります。ですからよけい、今回の事件は氷山の一角ではないかと思うのです。その根本問題は、従来一人の患者に焦点を当て、そこで完結した治療を行なってきた医学が、臓器移植という差し出す側と貰う側の二者を同時に対象としてしまったところにあると思います。それがお金の問題を巡って顕在化したのが今回の事件です。これをきっかけに、生体移植に限らず臓器移植全体の根本を省みるべきではないでしょうか。

――改定法案の特徴と問題点にについてお聞かせください。

小松:最初に現行の臓器移植法の確認をしておきましょう。現行法で一番重要なのは、どういう場合に移植医が臓器を摘出できるかについて書かれている第六条です。それは脳死判定と臓器提供に関して脳死者本人が“生前に”文書で承諾の意思表示をしており、かつ家族がそれを拒まない場合です。つまり本人と家族の二重の同意があって初めて、臓器摘出が認められています。しかし、移植を推進しようとする人にとっては、これは厳しい条件です。実際、日本では臓器移植施行から丸9年間で脳死状態からの提供者が49人(06年10月30日現在)しか出ていない。そこで、厳しい条件を緩めてドナーの数を増やそう、というのが改定案の目的です。

 目下のところ、改定案としては、脳死を一律に死(の基準)と定めるA案と、現行法の基本的枠組みを残して臓器提供の可能年齢を今の15歳以上から12歳以上に引き下げるB案、この二つが国会に上程されています。端的に言って通る可能性が高いのはA案です。最近仄聞したところによると、衆議院自民党国会議員は8〜9割がすでに賛意を固めたそうです(参議院では現在調整中)。B案にも私はもちろん反対ですが、それ以上にこのA案は絶対に通してはいけない。なぜなら、脳死が一律に人の死の基準となってしまえば、つまり脳死患者が一律に死体だと法律で定められてしまえば、本人や家族が拒絶しても、それが認められないからです。そもそも脳死者は健常者と同様に温かいし、脈拍があり、汗も涙も流し、妊婦であれば自然分娩もできる。しかも四肢の滑らかな動きも少なからず生じる。けれども死体に対する治療などありえない以上、そういう動きを目の当たりにした家族が懇願しても、厳密に法律に従った場合、治療を続行してもらえない。医師も自らの使命を果たしたいと願っても、法律に縛られて叶わない。

 さらには、臓器提供に関してもA案は、本人が拒絶の意思を示していない限り家族の承諾だけで認められる、としています。私自身は本人がOKと言ったとしても脳死状態からの臓器提供には否定的ですが、その私でさえ、本人の意思がわからないのに家族の承諾だけで臓器摘出が認められるというのでは、人間の存在、意思を冒涜するものになっていると思います。ここで想起すべきなのは、冒頭で述べた宇和島の事件です。臓器提供者本人の意思がはっきりしていてもあのような臓器売買があったのなら、家族の承諾だけで臓器提供が認められるようになれば、一体何が起こるかわかりません。しかもA案は(B案も)、現行法では認められていない臓器提供の相手を指定できることを謳っているのです。

 他方、B案は脳死を一律に人の死(の基準)としていませんが、そうであるならばなぜ、生きている脳死者から心臓や肝臓などを取り出せるのでしょうか。取り出された側はそのことで確実に死んでしまうのに。これは現行法が議論を回避してきたことでもあります。また、B案は提供可能な年齢を15歳から12歳まで下げるわけですが、提案代表者である公明党の斉藤議員とシンポジウムなどで何度かお話ししたところ、12歳というのはあくまでも“当面”であって、徐々に年齢を下げていく意向だそうです。幼児や乳児が臓器提供の意思を示せるはずはありませんから、B案はやがてはA案とほぼ同じところに行き着くことになります。繰り返しますが、脳死状態をどうして人の死とできるのかについて、満足のいく議論と答えが全くないままに、です。

――ご著書の『脳死・臓器移植の本当の話』(PHP新書)をはじめ、様々な場所で執筆や発言をされていることかと思いますが、通常私たちには秘匿されたままになりがちな脳死者の実態とはどのようなものなのでしょうか。 小松: 一般的にテレビなどでは、臓器移植でこんなに元気になった、というレシピエントの映像だけが出てきます。ですから我々は臓器を待っている側、移植を受けて幸せになった人たちだけに眼差しが向かいがちです。しかし言われてみれば当たり前なことですが、一人の人間が仮に助かったとして、背後には臓器を提供した脳死状態の人々が必ずいるわけです。仰るように、その実態が世間一般には知らされてきませんでした。

 まず先ほども述べたように、脳死者は触ると温かい、脈も取れるし汗や涙も流す。女性で妊娠していれば自然分娩も出来る。7〜8割の人には脊髄反射が起こるとされます。少なくとも私には、動いている人が死体だとはとても思えません。去る10月17日(火)のフジテレビ「ニュースJAPAN」で、これまで最も秘匿されてきた脳死者特有の自動運動、自発運動であるラザロ徴候の様子がついに放映されました。これは、脳死が確定した後や脳死判定の最中に、ベッドに横たわっていた脳死者の手が刺激を与えていないはずなのに自然に上がって、胸の前で握り合わせてまた戻ったりする、非常に滑らかな運動です。それが4日間も続いたという論文報告もあります。これを抽象的に「ああそうか」、「そうは言ってもその後の命はそれ程長くはないのでしょう」と考えてしまうかもしれません。しかし、実際に自分の肉親が脳死に陥り、人工呼吸器が外されて「ご臨終です」と言われたとき、ラザロ徴候を示し始めたら、いったい本当に亡くなったと思えるのか。私には絶対に思えないでしょう。

 しかも、それだけ滑らかに動くような状態なので、臓器摘出のために脳死者にメスを入れると血圧や脈拍が急上昇します。場合によっては動き出し、ひどい時はのた打ち回ったりもする。移植手術どころではなくなってしまうので、日本でも100パーセント行なわれていると思いますが、暴れるのを防ぐために麻酔や筋肉弛緩剤を投与し、鎮静させて臓器を摘出します。医学部の死体解剖で麻酔や筋肉弛緩剤を打ってから始めることはないわけで、こうした処置は脳死者が生きていることを如実に示しているでしょう。ですから言葉は強烈かもしれませんが、脳死者からの臓器摘出は医療現場で行なわれている殺人に他ならない、と私は見ています。

 二点目ですが、従来は脳死に陥ると4、5日、長くても1週間で確実に心停止を迎えると言われてきました。日本では1985年に当時杏林大学教授の竹内一夫氏が旧厚生省の研究班長になって脳死判定基準(厚生省基準)を作りましたが、竹内氏自身その後もこのことを繰り返し明言してきました。ところが慢性脳死者、長期脳死者と呼ばれる、かなり長い年月にわたって脳死状態のまま生きている人々がたくさんいます。最長はアメリカのケースで、21年間生き続けました。その男性は4歳のときに脳死と診断されたにも拘わらず、その後に身長が150cmまで伸び、体重も60キロに増えて、髭が生えて第二次性徴を迎えました。脳死者が成長したのです。これも脳死者が生きていることの証でしょう。因みにその人が亡くなった後に解剖を行なったUCLAのアラン・シューモン教授が、昨年5月に日本で講演した際の話によると、神経細胞や脳幹構造はまったく失われていた。僅かに残った脳の部分もガチガチに石灰化していたそうです。脳がそのような状態になっても、その人は21年間生きていたわけです。

 ここで我々が省みなければならないのは、あまりにも脳の存在意義を過大視してきたことではないでしょうか。人間の生命機能の全てを脳に帰着させる脳還元主義は、20世紀後半からの最大のドグマだと、私は思っています。脳が機能停止したような状態でも――人工呼吸器等いくつかの力は借りていますが――人間は病と闘いながら生きて行くことができる場合があるのです。脳死臓器移植推進論者は、「それは例外だ」と切り捨てがちですが、しかし、そうした生身の慢性脳死者が一人でも存在したなら例外として片づけてはいけない。しかもシューモンの論文では、同種の脳死者はかなりの数潜在すると述べています。なぜなら、脳死状態に陥った時点で、欧米ではただちに人工呼吸器のスイッチが切られてしまうか、元気な脳死者からいち早く臓器を取り出してしまうからです。そうしたことがなされなければ脳死状態のまま生存する人は遙かに多いだろう、というわけです。

 さらには、医学論文にさえ載らない隠れた事態があります。日本でも脳死状態のまま何年間も生きている子どもがたくさんいるということです。こうした子どもの親がなぜ名乗りを上げないかというと、事態がマスメディアを通じて明るみに出た場合、本当に脳死かどうかを確かめるべきだという外圧がかかりかねないからです。つまり、脳死判定の中には人工呼吸器を外して自力呼吸の有無を確かめる無呼吸テストがあり、この危険なテストを実施した場合、それが原因で本当に亡くなってしまうかもしれないからです。しかも、家族にとって重い意味を持つ闘病生活が、世の中の摩訶不思議なオカルト話として、軽んじられ喧伝される可能性がある。そういうことを懸念して表に出られないのです。

 三番目に脳波をめぐる問題もあります。脳死者には意識が無い、と断定されてきました。脳死判定基準の中には脳波の測定があり、「脳波が平坦になること=意識が無いこと」になっています。しかしその測定は、頭皮上に電極を当て、脳から出てきた脳波のうち頭皮まで届いたものだけを拾っているにすぎません。つまり厚い頭蓋骨で遮られてしまい、探知されない脳波もあり得る。表面ではわからないけれど、脳そのものは活動しているかもしれない。実際、脳死が確定して頭皮上で脳波が取れなくても、その5日後に鼻腔に電極をあてがうと脳波が取れたという医学論文もあります。

 さらに述べると、脳波が完全に無くなったからといってその人の意識が無いとは断定できないでしょう。そう言明する脳外科医もいます。例えば『現代思想』06年10月号で私がインタビューを行った、片山容一日大医学部長がその一人です。私自身は脳死者に意識があると断定するつもりはありませんが、無いとも科学的に言えないはずです。ですから、意識が存在する可能性がある人に無いと決めつけることは、意識が無い人にあると期待するよりも、遥かに恐ろしいことではありませんか。少なくとも、救命すべき医師が、一見科学的な衣を纏って、実は非科学的な憶測で意識の有無を断定してはならないでしょう。

 最後の四番目は、脳死を人の死の基準とする科学的論理を巡る問題です。そもそも、どうして脳死が人の死の基準になったのでしょうか。例えば脳死者は「意識が無い」とか「遠からず死ぬ」とか「ずっと寝たきり」だから、脳死が死の基準となったのではありません。「有機的統合性」という生理学概念(全ての臓器・組織・細胞の相互作用によって生み出される身体の全体的調和性。例えば身体内環境の恒常性) を基盤に据えた公式論理があるのです。まず、死を有機的統合性が崩壊することと定義し、有機的統合性の中枢は脳にあるのだから、脳死=死(の基準)と結論する三段論法です。しかし、アメリカを中心とする近年の様々な医学論文では、その論理も科学的に完全に破綻していることが論証・実証されています。例えば先程述べた21年間生きた脳死者は、脳死状態に陥っていたのに有機的統合性を保っていた。そうだとすると、今の公式論理の第2段目、すなわち「有機的統合性の中枢は脳にある」という部分は成り立たないわけですから、脳死=死(の基準)という全体論理も成立しないことになります。ところが、このように科学的に破綻した後に、まさに驚愕すべき論理が出てきているのです。

 一つは、アメリカのハーバード大学の麻酔学教授ロバート・トゥルオグ氏のものです。氏は脳死者が生きていることを認める一方、臓器移植は推進しなくてはいけないという立場に立つ。しかし、生きている人から心臓などの臓器を摘出することは殺人になる。そこでトゥルオグ氏は、「移植臓器の獲得のためには、時には殺人も認められる必要がある」という結論を、医学論文で言明しているのです。理念としても殺人を公然と認めるなら、我々の人間社会は崩壊に向かうでしょう。これが移植最先進国アメリカの実情です。

 日本でも松村外志張氏という企業の研究所の幹部の方が、「臓器移植に思う――直接本人の医療に関わらない人体組織等の取り扱いルールのたたき台提案」(『日本移植学会雑誌 移植』第40巻第2号[2005年]、129-142頁)という論文で、同種のことを語っています。日本人は自分に直接関わらない医学研究や産業利用のために人体を提供することへの抵抗感が強いので、その打開策を練る、というのが論文のモチーフです。

 その中で松村氏は、今まで日本での死をめぐる言葉は「死」と「殺」の二つだけだったけれども、両者の間に「与死(よし)」という概念を設けようと提唱します。氏によれば、我々は歴史上、生きている人間に合法的ないしは決まり事として死を与えてきた。例えば、遊牧民族が行脚に耐えられなくなった同胞を原野に捨てていく、軍隊の出兵は事実上死なせることを承認している、日本の神風特攻隊の使命は敵艦を見つけられなくても生きて基地に戻らないことだった、信憑性は別として姥捨てということもあったらしい……。これらに倣って、現在の日本も死なせてよい幾種かの状態の人々を定めて、「与死」の概念を当てて、臓器や組織を取り出し、医学利用・産業利用していこう、こう提言するのです。そして与死の対象者の一つが脳死者なのです。これは、脳死者がまだ生きている事実を認めているからこそ、なしうる提言に他なりません。極め付けとして、雑誌の編集後記ではその論文を絶賛する移植医のコメントが付いています。

 マスメディアを通して、レシピエントが助かったという美談ばかりが流れていますが、以上が美談の陰に隠れた脳死・臓器移植の実態の一端です。

――大変ショックを受けるお話です。

――『脳死・臓器移植の本当の話』中の記述で非常に驚かされことの一つに、臓器移植の延命効果に関するデータとご考察(第二章)があります。それについて、改めてお聞かせいただけますか。

小松: 移植の成績は何によって表されてきたかというと、移植後の生存率です。移植の1年後、5年後、10年後には何パーセントの人たちが生きているか、それを1年生存率、5年生存率、……と言うわけです。しかし、その人たちがもし移植をしなかったらどうなったか、という疑問がかねてよりありました。というのは、「移植をしないと助からない」と宣告されて何年も待っていた人が、ようやく順番が来て移植をすると数ヶ月で亡くなってしまうケースが少なからず報道されてきたからです。けれども、やはり人生をやり直すことが出来ない以上、移植をした場合としない場合は比較対照出来ないのではないか、したがって、移植による真の延命効果は知りようがない。そう思ってきました。ところが数年前、心臓移植をした場合としない場合を比較対照した、アメリカの驚くべき統計調査を発見しました。

 心臓移植が必要だと言われて移植の順番を待っているとします。先に申したようにアメリカでも臓器不足で、すぐに移植が出来ないのです。こうして、9ヶ月間内科治療だけを続けてくると、その9ヶ月後の時点でさらに移植をしないまま1年間生きていられる割合(待ち始めた時点からだと1年9ヶ月生きていられる割合)が、移植をした人の1年生存率と同じになるのです。9ヶ月を超えてさらに待った場合の1年生存率は、移植をした人よりかえって上がってしまう。これは別の見方をすると、本当に移植をしないと助からない人の多くは、順番を待っている間に亡くなってしまう。実際移植を受けられた人のかなりの割合が、移植をしてもしなくても同じ、むしろしなかった方が長生きできるということです。しかし、この分析は救命のみに焦点を合わせており、かつ1年生存率だけの話です。5年、10年生存率はどうか、クオリティ・オブ・ライフつまり生きている状態の質はどうか、という問題は残ります。しかもこれは15年前のたった1本の、心臓移植に関してだけの論文で、厳密に言うと統計調査の処理の仕方にも少々の問題があると私は見ています。けれども、これをきっかけに考え行動することは多くあります。

 「それでも脳死臓器移植で助かる人がいるのだから」というところに私たちの気持ちは戻るかもしれませんが、移植の延命効果を厚生労働省や日本移植学会は責任を持って統計調査し公表すべきでしょう。なぜなら、「移植をすれば助かる」という前提自体が事実に悖るかもしれないからです。私は去年の4月、厚生労働省臓器移植対策室の方々も列席する前で同種のことを申しました。そのことと関連するかどうかは別として、厚生労働省と関係の深い機関に日本臓器移植ネットワークがあるのですが、そこのサイトではレシピエントとなった人が何年何月移植手術を受けたか、亡くなった場合はその年月がずっと見られるようになっていました。ところが今年の1月下旬に、レシピエントの死亡年月が一斉に消えてしまったのです。レシピエントの数が百数十に達し、統計調査が出来、移植の延命効果がわかる可能性が出てきたところで消されてしまいました。

――それは数が増えたからだけではなく、まさに統計調査をされたら困るからデータを示さなくなったと勘ぐられてもおかしくないのではないですか。

小松: 私もそう感じます。話は変わりますが、脳死臓器移植に反対する者は、では代替医療を提示せよと追及されがちです。しかし仮に代替医療が無くても、脳死臓器移植にあっては時間的にも論理的にも臓器移植の前に、まず臓器摘出によって脳死者の命を殺めているのが事実です。事実だからこそ、「移植臓器の獲得のためには、時には殺人も認められる必要がある」といった暴言と呼んでも差し支えない発言や、「与死」などのウルトラ方便が登場するのでしょう。臓器提供を待ち望んでいる方々には残酷に聞こえるでしょうが、「人を殺してはいけない」という人間社会の倫理の根幹は絶対に潰してはならない、と考えます。

 代替医療はある程度あります。周知のように腎臓については人工透析器があるし、心臓や肝臓では別の外科手術や内科治療がある。ただそちらがあまり発達していかないのは、お金が注がれないからです。その主な理由は、そうした医療に投資しても、それに見合った大規模の市場が開かれないからでしょう。

――仮に改定法案が通り、脳死臓器移植がさらに推進されることにより、どういう社会が到来するとお考えですか。

小松: 脳死臓器移植における「臓器不足」という言葉を改めて考えてみると、それは脳死者が不足するということに他なりません。ドナーとなる脳死者は救急救命医療が発達するほど少なくなるので、そこに脳死臓器移植の原理的な矛盾があります。レシピエント側にとっても、順番が来ないと焦ってしまったり、誰かが脳死状態に陥ることを望んでしまうのは非常に不幸で残酷なことです。これはブラックユーモアのような事実ですが、アメリカは自動車国家なので交通事故を減らすために高速道路の速度制限を厳しくした。それにより事故は減ったけれども脳死者の数、ひいては移植件数も減ってしまった。だから今度は速度制限を再度緩めようという議論が起こったのです。

 そもそも法改定の主眼は、A案のように脳死を一律に人の死の基準にすることにあるでしょう。脳死者の治療は現在の日本では保険治療で、1日に10数万円かかると言われている。脳死を一律に死の基準とすることで、その人たちへの治療費、つまり保険負担費・税金が脳死者の人数×生きている日数分だけカットできる。同時に脳死者の利用は臓器移植だけが有名ですが、それだけではありません。新薬を投与し、効果や副作用を調べられるし、長く脳死でいてくれたら、例えば世界的に足りない血液をはじめ様々な成分を無尽蔵に作り出す工場になる。さらに脳死者の精子卵子を取り出して受精卵を作れば、様々な研究開発に利用できます。こうして莫大な市場が開かれていく。費用をカットしつつ様々な利潤を生み出せるというわけです。

 最後は一見関わりないように感じられることです。日本の場合は特に教育基本法の改定と連動している、と私は見ています。というのは、現在の臓器移植法の改定にあって、A案とB案の提案者のいずれも「脳死や死の教育を普及しなくてはいけない」と力説しているからです。このことで秀逸な教育がなされるはずはなく、「脳死状態で社会に迷惑をかけるのなら、自分から臓器を提供しよう」とか、「社会のため、国家のために臓器を提供する子はよい子」といったイメージ教育がなされかねない。教育基本法が今の方向で改定されると、一人ひとりの児童や生徒が一個の権利を持った市民・国民ではなく、事実上“臣民・少国民”に変わってしまうでしょう。国家のために奉仕する子どもたちを作る一環として、社会・国家のために臓器を提供する子どもが位置づけられていくわけです。既に、誘導的な尊厳死安楽死教育は小中高で広がっており、担当教員もどこまで自覚的かわかりませんが、授業パターンがほぼ決まっています。植物状態や様々な闘病生活で厳しい状態にある人の映像を見せたり文章を読ませた後で、例えば「尊厳死安楽死という方法があります、その上であなたはどう考えますか」と教師が問いかける。こうして、やはり尊厳死安楽死を選択すべき、という発想が生徒に涌出するように導いている。フーコーアガンベンの「生-権力」の現代版です。ですから教育基本法の改定に異議を唱えている方は、臓器移植を初めとした医療問題の先端で起こっていることにも視野や射程を広げていただきたいのです。                   
(了)


 ここで何度か書いてきたことだが、死のデフォルト定義が脳死になれば、脳死を死の定義としない人間におってそれは「合法的」に殺害されることを意味する。脳死を死の定義とするのが法律であり、法をつくり政治家、医学者、医学産業であるなら、それらに殺されることと同義になる。
現在の臓器移植法は、臓器提供を事前に申告した人間においてのみ脳死を判定する。が、A案が通れば(B案でも将来的な改定が行われれば)、すべての人間に脳死判定が適用され、事前になんの意思表示もしていないのであれば、デフォルトで臓器を奪われることになってしまう。繰り返すが、それを「合法的に」行われてしまう。