アフタヌーン 1月号 + 四季賞ポータブル(2006秋のコンテスト)

四季大賞「死神」(臼井仁志)

 総評。そうでもない。ポータブルに収録された3作品ともに言えることとして。


 頬に浮かぶ漢数字で他人の死期を知る能力をもつ主人公。「一」「二」「三」「四」、死の瞬間に「四」が「死」に変わる。主人公は過去に、妻を亡くした父親が自殺、病床にあった祖父の生命時装置を外したことがあり、そのせいか無気力で衝動的。その主人公がふとした偶然で窮地を助けてもらった少女の頬に「一」の数字を、ほぼ同時に自分の頬にも「一」の数字を見てしまう……。
寓話性の高さが気になる。プロットを読ませられているような。セリフ回しの生活観の無さ、演劇っぽくて説明的な口調とか。浮遊感を狙ってるわけでは決してなく、絵柄は泥臭さをかもすほどいちいち描写に徹しているのに。血肉の通ったセリフが少なく、視線で流して「ああ、こんなことを言ってるんだな」と把握できてしまう、ありきたりさ。プロと比べるのは酷かもしれないが、最近だと、コミックビームFELLOWS! VOL.1の「みかんスープ」(作画:福島聡、原作:小出和彦)が演劇用の原作をうまくマンガとして落としこめていたのを思い出してしまう。悪い意味での青臭さ=頭の中だけの会話が目立つように思う。
 例えば、なんで主人公がそこまで無気力で衝動的になってしまったのか。母親の死で主人公を責めながら自殺した父親、祖父の死を幇助した過去や、教頭の死を予言してしまったことで周囲から「死神」呼ばわりされる今、はバックにある。身内に見捨てられたことや、その死を頬の数字で予期しながら何もできなかったことを、己が生きていくことの意味の薄さに繋げてしまった……、と言葉にすればなんとなくそうなのかもしれないと思わせる。が、これもこうやって説明で与えられる以上の訴える力になっておらず、作品という形で伝えられていない。
 大賞を与えられるほどの作品とは。


 「死」を見る能力が、本当は別の「死」を見ていたことが分かるラストは、学校の廊下で主人公にわざと肩をぶつけてインネンをふっかけてきた「村井先輩」の頬に、「一」か「二」の数字が浮かんでないとおかしいことが複線になってる。「村井先輩」に殴られた直後の保健室で主人公とヒロインの頬に「一」の数字が浮かんで、二人が死ぬことになる日時の数日前に、「村井先輩」はトラックに轢かれて死んでしまったわけだから。でも、そういう隠し味も誌面では特には生かされていない。プロットまでは良かったんだろうけどねぇ。


 

四季賞「道のうえ」(大岡智子)

 246kmを36時間以内に走りきるスパルタスロンに選手生命をかけて挑む女性ランナーとコーチの物語。36時間もかけて走れば、想像もできない肉体の限界が迫るって思うじゃないですか。なのに、別に普通42.195kmマラソンを走りきるくらいの限界描写なのが残念。中学校の持久走大会でも同じようなテーマで描けたんじゃないのかなあ。


池上遼一特別賞「その心臓を動かすものは、」(左右)

 夫と離婚し、男漁りの激しい母親を、うとましく思う娘は、同級生の父親の不倫相手が自分の母親だと知って……。
 これは、少女時代の母親にかまってやれなかったことを後悔している祖母か、当の母親本人かその少女時代の本人回想を、主要視点にもってきたほうが良かったろう。女子高生の娘の視点は傍観者に近く、ドラマを大きく転換させる役目を果たしていない。尺も短い。祖母に抱きしめられた母親から流れ出る涙が唐突。きりがない。