水声通信 No.14(2006年12月号)


 特集は「戦後マンガ史論をどう書くか」。一昨年から昨年にかけて、「テヅカイズデッド」や「エロマンガスタディーズ」や「ストーリーマンガの起源」など、マンガ論の出版が立て続いたことを受けた企画、らしい。らしいというのは、趣旨説明にあたるリードがないから。そのためか知らないが、執筆者によって、主張がダブってたり、あまりに主張の土台や方向性が異なっていたり、何をしたかった企画なのか、混乱気味。マンガ史を構築していくにはこういう方針が有効ではないのか、データベースが必要だよね、面倒でも一次文献にあたるべきだけどちゃんとそこまでやってる人は案外少ないよね――といった、初心表明的な主張は新味に薄かった。



 一方で、まだまとまって論じられていないマンガ史の穴を指摘する文章やテーマには、これからの展開を期待させるものがいくつかあって、中でも、梶井純の『残れるはこれか、憤怒の記憶 「赤本マンガ」あるいは前「貸本マンガ」と戦争体験』は、読み応えがあった。そして、ある種のショックも。
 貸本マンガの前の時代、戦後すぐから1950年代初期に流通した「赤本マンガ」で出版された、平島一という作家の「異国の丘」をとりあげ、旧ソ連に捕虜として連行され厳冬下のウランバートルで重労働を課された兵士たちの物語を「憤怒以外のなにものでもない」ものとして厳しく描写する姿勢を、時代背景と共に、当時でしか描かれえなかったのではないかと論じる。
 60年以上が経った今の時期に、「赤本マンガ」という稀少なジャンルの中においてもいろいろな理由からさらにニッチだった15年戦争を背景とした娯楽性皆無のマンガをとりあげ、ないがしろにできないと意気込む筆者。異様と言えるほどの熱意に読んでいて圧倒されてくる。
 ショックは、「異国の丘」と対比させる作品として、「いささかアレゴリカルな連想をすると」と断りながら、貸本マンガ出身の水木しげるが1973年に刊行した「総員玉砕せよ!」をとりあげ、「表現としてなら形骸といっていいほどのレベルで完結してしまっていた」「辛口を承知のうえだが、しょせん、「憤怒」など知ったことではない「戦無派モッブ」にむけて提供された作品であったとはみることはできる」と切り捨てるような評をためらっていない点。「総員玉砕せよ!」には、「異国の丘」にあった、憤怒がないのだという。逆に、表現形式は稚拙らしい「異国の丘」には、「その「憤怒」だけが張り付いていた」と。
 小学生の頃に図書館で借りて読んでショックを受け、最近、講談社文庫版で買い直していた「総員玉砕せよ!」は、水木の体験に多少のフィクションを織り交ぜ、実際には多数の生き残りが出る結末だったものを、総員玉砕、のラストに変えたことを水木は記しており、それは物語としての完成度を高めているという評価があるようだ。それが憤怒の濃さをかすめてしまっているのだろうか。かすめてしまっていると梶井は考えるのだろうか。「総員玉砕せよ!」ほどの救いのなさとやりきれなさであっても、終戦から30年近く経った時点の物語には、もう憤怒が薄れかけていたのだろうか。表現としての完成度を度外視して、戦争に対する憤怒のみを追求しているという「異国の丘」が、どのような作品なのかいてもたってもいられない興味を抱かせる。
 それから、終戦後すぐ、1948年頃から水木が手がけた「ラバウル戦記」の一部作品にも、梶井が言うような憤怒は見られないのか、確認がいるだろう。


総員玉砕せよ! (講談社文庫)

総員玉砕せよ! (講談社文庫)

水木しげるのラバウル戦記 (ちくま文庫)

水木しげるのラバウル戦記 (ちくま文庫)