母方の祖父が自分史を。


 行政が実施する高齢者向けの生涯学習事業の一貫で、執筆者の一人として祖父が加わったという、自分史集が実家から。題材は、正月や盆の集まりで何度か耳にはしていたシベリア抑留の経験。収容所時代は、辛い石切作業や農作業、虱、凍傷、餓えに見舞われた日々だったと。まったく知らなかったが毎年、収容所時代の仲間と同窓会を開いていたらしい。最初に同窓会の開かれた年が偶然、自分が生まれた年で、苦しかったけど今では孫も生まれてまして……、などという会話を交わしたのかどうか。最近、病気をわずらい手術したからか分からないが、余命を大事に生きたい、と結ばれていた。
 これもまた知らなかったが、戦前戦中は、満鉄の調査部にいた後、予備士官学校に入学、少尉に、そこへソ連戦線布告、抑留という経緯をたどったらしい。当時の少尉がどんなものだったのかよく知らないが、おそらく「予備士官学校(略して予備士)では、短期教育による即席の予備役の将校を養成するのである。入校と同時に「陸軍伍長」という 下士官の階級が与えられ、1年間(のち短縮)の将校教育ののちには「見習士官」として各地の部隊に配属されて、「陸軍少尉」という最下級の(それも消耗品としての)将校になるのである。」という待遇で大きく間違ってはいないのだろう。帰国の船の中で、ソ連共産主義に感化された抑留者を海に投げ込め、という騒ぎがあったとの記述。戦前戦中の左翼転向者が数多くいたという満鉄調時代と抑留時代にどういう思想をもっていたのか、記述はなく、どういう立場でその騒ぎに対峙したのかは分からない。政治や外交や何やに対する意見を祖父の口からこれまで聞いたことはない。
収容所で現場責任者を務めていたとき、脱走事件があって、当然ソ連兵から責任を問われ、無事逃げられたかを案じると同時に責めを負わされたことに苛立ったと。当時の感情を具体性をもって書き出した記述は、十数ページに渡る記述の中で、ここのみと言えるくらい、文章全体に発露が乏しい。史集に掲載されたほかの書き手は、悲しかったとか怒ったとか喜んだとかそういった感情を、数行ごとに書き連ねているのに。しかし本人に表情が乏しいなどということはなく。こんな淡々とした書き方に徹した理由を聞きたいと思う。




 中国に出兵していた父方の祖父はもう世を去ってしまい、こちらの祖父には存命のうちに、必ず聞いておかなくてはならないとずっと考えていたところに、先を越されてしまった思いがある。自分史の中で少尉時代のことは一切触れられていない。おそらく殺さざるをえない状況はあったはずだと思う。自分と二親等離れた親族が、兵士として戦ったという捉え方よりも先に、殺した経験があるはずなのだという推測のほうが気持ちの中で勝ってしまう。