ある見解の相違。

2007年10月27日(土)

■簡単に『見本誌チェック』と言いますが……。

「何のために見本誌チェックをするのか?」、「『法律に反しない』とはどういうことなのか?」、「なぜコミケットの見本誌チェックは事実上『ワイセツ』に限定しているのか」、「『青少年の健全な育成』に問題な表現というのを、誰がどういう基準で判断でするのか?」、「その判断は、『ワイセツ』よりも、作品の内実に踏み込むことになるが、サークルの自由な表現とのコンフリクトをどう考えているのか?」、「そもそも、見本誌チェックをするということは、頒布物に関する責任を即売会主催者がサークルと共同して持つことの明確化である」とか、ちゃんと考えての対応なんですよね?
そして、「イベントの存続」を追求することは、イベンターとして当たり前かとは思いますが、「サークルのために最大限発表の場を確保する」、「表現の場を可能な限り守る」ことがあっての存続であるはずですよね? 手段と目的が倒錯しているようなことは決してないですよね?

http://www.st.rim.or.jp/~nmisaki/

理想論。

以下、私見ですが。

責任云々については、「なら責任とれないからチェックしませんよ」とも言えないだろうし、さすがに理解はしてると思いますよ。実際問題になった時にどうなるかは、横に置いておくとして。

>「サークルのために最大限発表の場を確保する」、
>「表現の場を可能な限り守る」ことがあっての存続であるはずですよね?

なくてもいいんじゃないかな。どこまでできるかを明示して、それに納得いかなければサークルが避けるだろうし。表現可能な幅が広い、ということが即売会の売りになってもいいと思う。

http://blog.livedoor.jp/increment/archives/51169668.html

2007年10月28日(日)

■理想無くしてなんのための「場」か?

理想論? それの何が悪い? 表現規制は、ひとたび戦線を縮小してしまったら、それがどれほど後への悪影響を及ぼすか、しかもその影響が自分だけに止まらないことに、どれほど自覚的なのかしら? 理想を高く掲げていれば、自分たちで戦わずして(正面突破だけが戦いだけじゃないからね。誤解無きよう)、イベントを中止したり、自主規制することを、こんなに拙速にできるはずがないのだが?

http://www.st.rim.or.jp/~nmisaki/

何だか随分と荒れておられますね。

正直に言えば、理想論を語るのなら現実に目を向けて詰め直さないと、現実に向き合う姿勢を維持しないと、それはそれで辛いことになるとおもうのですが、どうなんでしょうか。
※正直、三崎さんは一個人と言う立場では実質的に無くなっているわけですからね。ご本人の自覚と主張は別にして。
ただ、じゃあ理想論のまま突っ走って、イベントが続々と中止に追い込まれたりして細っていくってことがただ、ただ正しいことなのか。
好きなもの、好きなことのために選択せざる得ない現実はないのか。
自分たちの抱える主観的な理想が社会に受け入れられるように幾分かの変容してでも努力するのか、自分の正しい姿勢だけを独り叫んで孤立していくのか。
だからこそ日頃から私は同人を取り巻く社会との摺り合わせをすべきだ、と思っているんですけどね。闇雲に権利だなんだと正論を撒き散らすことがイベントの中心にいる人のすることではないって常々思います。
※常識とはなんぞや…なんて禅問答しだしたらそこでアウト。社会人、社会経験があれば判る「概念」なはずなんですけどね…。
同人を至高といわないまでも文化だと主張するのであれば、内に向けても非は非としてちゃんと指摘することをしなくてはいかんのではないかなぁって思うし、個人的には先日の印刷組合のコメントと合わせて、拙速なのは三崎さんご本人ではないのかなって思わないでもありません。
もっとも三崎さんは言うけれど、他はほとんどダンマリしているのもどうなんですかねぇ>大規模イベンター。
黙っていれば嵐が過ぎ去るってわけでもないでしょうに。

http://aegagropila.asablo.jp/blog/2007/10/29/


自分の見解。
言うべきことを言わずに、相手の要請に唯々諾々と従う素振りを取ることで、嵐が過ぎ去るのを待つのは危うい。ポーズを取る相手は舐められ、いつしか利用される(本人は利用されてることに気付かないまま)
もう一点。相手方は、どんなこじつけであろうと狙ったものを排除できる実質的な「力」をもっている。「摺り合わせ」を行う過程で、「力」を持つ側は対等な関係まで譲歩してくれることのほうが稀だ。「幾分かの変容」を「幾分かの変容」で済ませる優先権を、果たしてどちらが最終的に握りながら「摺り合わせ」が行われるのか。
竹花のような明白な意図を持った人間をバックに置いた都の方針とは、「表現の自由」という正論の予防線を張りながら、綱渡りの向かい合いをしていくべきだろう。