ケータイマンガ品評 メモその3 ― 画面構成の大別と「読みのテンポ」


紙媒体を前提として描かれるマンガの大半は、ケータイ画面上で読もうとしても画面の大きさが足りないため、雑誌や単行本のような読み方をすることが不可能に近い。このため、画面サイズに合わせる作業が不可欠。今のところ、その方法は大きく下の三つに分類されるように思える。


  1. ページ単位 …… 講談社幻冬舎など
  2. コマ単位・サイズ変更無し …… 小学館秋田書店実業之日本社など
  3. コマ単位・サイズ変更有り …… 一迅社の一部作品など

「ページ単位」は、マンガの原稿をページ毎に丸ごとスキャニングして、原稿の上をケータイ画面が移動していく。確認した範囲で、講談社の作品がほぼ漏れなく採用。幻冬舎が発行する有料電子マンガの「GENZO」のケータイ版も複数の作品で同じ方法を採用(「ガゴゼ」など一部作品除く)。
他の二つは、コマ単位に“ばらした”ものを画面を切り替えて表示していく。コマが横長や縦長、二つ以上のコマを繋げて表示する場合は、コマの上を画面が移動・スライドしていく。確認した範囲で、こちらの方法を採用する作品のほうが多いように感じる。
「コマ単位・サイズ変更無し」と「コマ単位・サイズ変更有り」の違いは、吹き出しと関係する。吹き出しの中の文字があまりに小さいと読みにくいが、読める大きさを保とうとすると今度はコマ全体が大きくなり絵が画面の中に収まりにくくなる(収まらない場合、移動・スライドをする回数が増える。後述するテンポの問題を左右してくる)。
そこで、「コマ単位・サイズ変更有り」は、なるべくコマの全体が画面に収まるよう配置し、文字の見えにくい吹き出しはボタンを押すと“拡大”させて解決を図っている。一迅社の「シンシア ザ ミッション」などがこの方法を採用している。



メモその2との重複。
ケータイマンガは紙媒体に比較して「読みのテンポ」にもどかしい感覚を抱きやすい。メモその2で触れた「フラット化」「均一化」を志向するカメラムーブが関係しているように思える。
紙媒体でマンガを読む時、読み手は通常、自分の読みたいところを好きなように読めるし、またそのように読んでいる。あるコマ、あるキャラクターの表情、あるセリフ、ある背景、ある欄外、etc。ある部分を読む回数、読む時間、読む順番などを好きにできる。
が、ケータイマンガは、「ページ単位」なら画面に入る範囲、「コマ単位」ならコマの範囲でしか読む(見る)ことができない。読む順番(カメラ移動)や読む方向(カメラスライド)は決められている。読むスピード(移動・スライドにかかる時間、画面切り替えにかかる時間)も一定。


三つの分類に共通する点として、画面の移動・スライドがほんのわずかしか行われないケースで、もどかしさを感じた。
例えば、画面上にコマの2/3が表示されていた場合、ボタンを押すと左にわずかにスライドして、残りの1/3を含むコマが表示される。残り1/3のコマに吹き出しやト書き、重要な絵があるならともかく、そのような要素が何もないと「その表示をわざわざ見させられた」「早く次が読みたいのに」「面倒な手間を踏ませられた」と感じやすかった。
同じく、例えば、横長のコマで、右に吹き出し・中央に人物の顔・左に吹き出し、という配置がされていた場合、右・中央・左の3度、画面が表示される。この時、中央の表示を「いらない」と感じることが多かった(ただし、中央の表示を“飛ばす”演出も存在する。演出者の育成・個人差・ノウハウの差の課題につながってくると思われる)。


特に、「ページ単位」は、限定されたカメラ枠の向こうにページや見開きの単位で広がる物語を見せつけられた上で、お預けを食っているような感覚におそわれた。俯瞰をしたいのにそれが出来ず、物語への没入やキャラクターへの感情移入を阻害されているような感覚がつきまとった。暗転させたステージを、サーチライトで照らされた箇所だけ見せられるような感覚(ドリフのコント)。
講談社作品に「ページ単位」が多い背景として、

  • 「コマ単位」移植と比べて移植コストを抑制可能?
  • 紙媒体前提に描かれた作品であることを尊重して切り張りしない?

などの推測。
何でもないコマまでいちいちすべて表示するカメラムーブは、作品に対する尊重の表れか? ページの全てを静止状態で確認できないと「落丁」にあたると考えるからか?


「コマ単位」は画面の切り替えで読み進めるため、「ページ単位」に比べればテンポが悪いという印象を抱きにくい。紙媒体でマンガを読みなれている場合、「コマ単位」のほうが割り切って読みやすいかもしれない。
が、「コマ単位」のテンポは、ページ上のコマ割りという紙媒体のマンガに不可欠な要素を解体した上で得られているため、そこにマンガを読むという行為や意識を見ていいのかどうか迷う。コマ割りの解体で、コマ割りが与える「意味付け」も解体される。“均され”てしまいやすい。ただし、KINOで六田登が自作の「F」を事例に話していたように、紙媒体で想定していなかった読みを派生させる可能性もある。