地球は丸い。


PS3で「AFRICA」というリアルシュミレーターゲームが発売され、話題だ。新宿西口ヨドバシのゲーム館店頭のモニターで、その超リアルな映像を間近に見た。サバンナでライオンや像の生態をリアルに観察でき、きまぐれに触れ合える、超リアルな箱庭ゲームという認識をした。PS初期の傑作である「アクアノートの休日」が懐かしく思い出されるが、その系譜、その進化系の最新版と捉えた。
きっと何百種類という動物たちが広いサバンナで悠然と暮らしているのだろう。でも、1枚のディスクに詰め込めるデータにはどうしても限界がある。だからこそ箱庭ゲームだ。箱庭だから、その世界には「端」がある。その「端」の先には何があるのだろう。「端」のデータはない。でも、想像はできる。そして良く出来た箱庭ゲームほど想像をさせずに置かない。もっともっと広い箱庭を楽しみたいと思わせる。そういう欲求が「アクアノートの休日」を「AFRICA」まで進化させてきた。



一方、「端」の先に行けるゲームは、「アクアノートの休日」の何年も前にすでに発売されている。そのゲームで「端」の先に世界は存在する。一瞬、そのように思える。けれども存在してない。見たことのある景色でしかない。
たまたま近所に引っ越してきた親戚の家にあったファミコンと「DQⅢ」に、週末だけの約束でのめりこんだ。アリアハンを出てノアニールにたどり着くまで3週間。イシスのピラミッド地下1Fで「おうごんのツメ」を持って脱出しようとして何度も全滅した。「おうごんのツメ」は欲しかったし、きっとマゾヒスティックなチャレンジにも酔いしれていた。けれど、奥底では、先々で手に入るらしい船を使い、未知の敵や城やダンジョンを自由に探索できるようになる日を、わざと焦らして楽しむという複雑な思いがあった。
ようやくポルトガで王様に「くろこしょう」を渡し、船で乗り出すと、ランシールへ「さいごのカギ」を探しには行かず、まず世界の「端」を目指した。
目指した「端」はなかった。たどり着いた、見たことのない海岸線に沿ってしばらく行く間に、ファミ通で見たマップに似た形の海岸線があったことを思い出し、なんとも言葉にしにくい違和感が襲ってきた。「端」はなかったが、その先もなく、自分は閉じ込められていた。世界がリンクしたあるいは繋がったという爽快感は皆無だった。もしそうだったら思い切りバカにしてやろうと待ち構えていた、黒ドットで塗りつぶされた画面は存在しなかった。どうどうと海水が流れ落ちる断崖絶壁であって欲しかったという思いは打ち砕かれた。*1



「AFRICA」の住人は、箱庭の「端」の外を想像することを許されている。だから「端」があることに絶望しない。
DQⅢ」の住人は、箱庭の「端」の外に世界は存在させてもらえないことを突きつけられる。だから、笑みの下に救いようのない絶望を抱え、何度声をかけても同じセリフをループし続ける。「端」から「端」へ、ループさせ続けられる。

*1:バラモスを倒した後、「Ⅰ」の世界へ“降りていく”ことに違和感はなかった。それは、平面地球の“裏側”に行くというだけの話だ。