論旨の飛躍を受ける。

http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090611/p1



まず一点。


ヘイトスピーチ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%82%A4%E3%83%88%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%81
全くの事実無根であるか著しい誇張をされたノンフィクションとしての「ヘイトスピーチ」と、フィクションであり、実在する個人、団体等とは一切関係がない「レイプレイ」を一緒くたに扱うことが、果たして適当なのか?
「事実の否定(という可能性が非常に高いもの)」と「妄想の肯定(とも読み取れるもの)」を、同列に論じていいのか?




もう一点。

意義などなくとも、それが人畜無害であるなら放置でいい。ただし、人に有害であることがこれほどハッキリと主張されている場合には、それではすまない。

前段のエントリ(http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090610/p1)では「害」というワードが使われていなかったため、そこはあえて触れずに論を押し切るつもりなのかと思っていたとこら、続きのエントリでとうとう触れられた。
「人に有害であることがこれほどハッキリと主張されている」という文章は、あくまで「主張」であって「証明/解明/実証/科学的な根拠で裏付け」されたものではないことを“分かった”うえで、あえて述べているのか?


それとも、ここで述べる「有害」とは、この部分より少し前で述べている、

ここに、いくつかの現実的問題を考える。たとえば、脅迫という言語行為、あるいは、フラッシュバックという現象に見られるように、表現が直接に暴力として作用しうる。だから、「完全なる言論の自由」をただ掲げるだけでは残される問題がある。そこには、表現することの意義と表現が直接にもたらす暴力についての比較考量の問題が生じる。そこで、表現することの意義が問われる。

における、「フラッシュバックという現象」などを指しているつもりなのか?
ある人が「フラッシュバックという現象」などに苛まれないよう、ある人が見たくないものを見ないで済む便益は、ゾーニングなどの自主規制によって最大限図られるようにメーカーや流通が努力するべきことは論を待たない。
しかしながら、ある人が「フラッシュバックという現象」などに苛まれないようにするため、それを誘発する懸念のあるものをこの世から消滅させるだけの理由は、今回の「レイプレイ」の件で見い出せるか?


陵辱ゲームはいかに「読み解かれて」いるのか。以上述べたような肯定的な読み解きはまったくない。それは陵辱をたのしむことを目的とした表現であり、つまり、それが肯定されることは前提されている。繰り返すが、「前提されている」だ。それは人間の中にある悪を悪として「問うている」のではなく、それを前提して「たのしんでいる」のだ。そのような「読み解き」を前提するならば、それは純然たるヘイト・スピーチ以外の何物でもない。

「レイプレイ」は「ヘイトスピーチ」にあたるか?
「事実の否定」と「妄想の肯定」を、同列に論じることは可能か?