マイマイ新子と千年の魔法(監督:片渕須直)

マイマイとは“つむじ”のこと。



昨日、ラピュタ阿佐ケ谷で21:00の回。

  • 昼12:00過ぎに窓口で買ったチケットの番号は20番台。固定席の50席に、追加のパイプ椅子と階段に敷いた座布団の席を含めて70弱の観客。チケットが取れず、今日や明日からの上映のため再訪した人は、どれだけいたのだろう。
  • 良かった。でも、良かったと思ってしまうことが、この映画の場合、明らかにおっさんの証になってしまうのだな。だからこうやってキータッチで表示することはできても、おそらく音声としては出せない。
  • そうなのだ。子どもの頃の1日は、これほどまでに長かったのだ。放課後、主人公の小学3年生の女子の新子(しんこ)は、その日に転校してきた少女の後をつけて、結局、学校から離れた埋立地の社宅にまでお邪魔して、そこでガス式冷蔵庫で冷やされていた瓶入り牛乳をごちそうになって、じゃあお礼に今度は私の妹を紹介するからと自分の家に連れて行き、転校生がお土産に持ってきたウイスキーボンボンをそうとは知らずに3人で食べて酔っ払い、その後2人一緒に、新子のおじいさんが小川をまたぐ形でつくってくれたハンモックの上で、ずっと前からの友達だったかのように肩を組んでしまうくらい子どもの頃の1日は長かった。忘れていたよ。滂沱。……おっさん!
  • 原作の高樹のぶ子は、パンフレットに寄せたメッセージの中で、「現実から逃避した物語で遊びたい人は、きっと失望しますから、観ないでください。」と寄せている。けれども、高樹は勘違いしていたようだ。現実から逃避したい人ほど、この映画を観るべきだ。失望どころか、満たされて帰れるはずだ(帰り道に、かりそめのものだと気付かざるを得ないのだけど)。高樹が言う「現実から逃避した物語」が、仮に「となりのトトロ」を念頭に置いているなら、確かにそういったファンシーさには欠けた映画だ。が、もふもふのトトロと大木のてっぺんで笛を吹いて遊ぶよりもっと楽しいことを、この映画は描くことに成功している。一面の麦畑の中に隠れてみたり、桑畑を流れるせせらぎを仲間達とせき止めてダムをつくってみたり、そこで金魚を飼ってみたり、その金魚が死んでしまったので遺跡の背後に墓を作って拝んでみたり。上映から21年経って、トトロはいないことを知りつくしたおっさんたちでも、そういった思い出はかろうじて持っていた! 忠実に再現された昭和30年代の周防地方の子ども時代こそがトトロ以上のファンタジー。おそらくアニメに詳しくない原作者にとって、そこは予想の範疇の外のことだったろう。
  • ストーリーの最後の最後で、新子たち一家は、前の冬におじいさんが亡くなったため(家に新子と妹、母親、おばあさんの女4人だけとなり、前に居直り強盗に入られた物騒さもあって)、緑藻研究家の父親が働く大学のある町へ引っ越していく。家財一式を乗せたトラックの荷台で新子と妹たちは、仲間たちに手を振って笑顔で別れる。このシーン(主人公が次のステージに旅立つ)があることで、ノスタルジーに浸っているおっさんという自意識から、多少なりとも解放される。「トトロ」では、冒頭、同じように家財一式を乗せたトラックの荷台に乗ってサツキたち一家が物語の世界へやってくる。それと新子の旅立つ方向は対照的だ。
  • せちがらいのは、いつの時代も同じだ。前よりもせちがらくなったように感じるのは、わたしたちが/あなたが年を取ったせいだ。
  • 上映終了後は、マッドハウス社長の丸田順悟エグゼクティブプロデューサーと片渕監督があいさつ。2人とも話の合間に「(上映が)こんな環境ですいません……」と申し訳なさそうにクチにしていたが、スクリーンが狭いとかレイトショーじゃ時間が遅いとか、そういうのは分かったおっさんたち来てるんだから、必要ない言葉だと思った。堂々してて。
  • 昭和生まれは皆、観れ。平成生まれは10年経ったらもう一度、観れ。

マイマイ新子と千年の魔法ラピュタ阿佐ケ谷
http://www.laputa-jp.com/laputa/program/mai-mai/