なんだか違和感。
80年代型「合同誌」が流行らない理由: たけくまメモ
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-fd72.html
前半から中盤にかけての、「「合同誌」が敬遠されて個人誌が主流になった」理由については、おおかたそんなところかなぁ、と同意するんですよ。ただし、合同誌が傍流だとしても、傍流になったのは面白くなくなったから、とは全く思わないけれども。面白い合同誌をあげろって言われたら、過去のリストから幾らでもあげられるよ。閑な人なら、過去記事を検索してもらうといい。
違和感はそこから後。
さて、では竹熊はどうして『マヴォ』のような「合同誌」を作ってコミケで頒布しているのかと疑問を持たれるかもしれませんが、理由はひとつしかないです。それは、
自分は『マヴォ』を才能発掘の場と位置づけていて、完全に編集者的興味で編集している。従って「合同誌」以外の形態を考えていない。売れる・売れないもこの場合は目的ではない。同人誌として出すのは、商業的な制約を回避するためである。ただし雑誌を維持しなければならないので、そのための営業販売努力は出来る限りする。
ということです。大学の漫研同人誌を始めとする合同誌に人気がないのは、俺としては「編集が弱い・または不在」だからとしか思えないんですね。多くの学漫同人誌がダメになってしまうのは、仲間が描いた作品は無編集で載せてしまうからだと思うんですよ。
学漫をくさすのに、さも編集不在が理由の一つであるかのようにあげつらうのは、「大きなお世話」そのものに聞こえるなぁ。
それでもって、自らの同人誌のほうは「売れる・売れないもこの場合は目的ではない。同人誌として出すのは、商業的な制約を回避するためである。」なんて予防線を張るのは、フェアじゃないだろ。
同人って、編集者が介在しないことが、魅力の一つなんですよ。別の言い方をすると、作者とダイレクトにつながることが出来ることが、魅力なんですよ。
編集の手が入った商業媒体ではまず遭遇できないような、荒削りで尖っていて奔放で惑っていて、それでも何かしら光るものがある。平凡な編集の手が入ってしまうとスポイルされてしまうような部分を、同人に求めている訳ですよ。
もちろん、商業媒体でそういった光るものを見つけることだってある。でも、編集の手が入った後じゃ、その光るものが作者によるものなのか、それとも編集によるところが大きいものなのか、分からないじゃないですか。
才能発掘を同人という形でやろうとしていることについては、商業媒体でそれが難しくなっていることや、マンガ科を持つ大学のカリキュラムがまだそのレベルに達していないことなどを考えると、賛同するんだけれども、その意義について、合同誌という括りの中での志の高さ――的な観点から表明する必要があるのか。
あと、「最近、「編集者抜きでマンガ雑誌を作ってみました」と鳴り物入りで創刊された市販雑誌」についての言及は、土俵が違う話なので、蛇足。