40日目。疑・原発派。



反・原発や脱・原発って言葉を聞くだけでぞわぞわーっとあれるぎーをもよおすような敏感脳向けの人に、疑・原発というすろーがんを用意してみたい。いきなり賛成/反対や正しい/おかしいの答えを求めるのではなく、まずは思った疑問を、反・原発の人、脱・原発の人、賛・原発の人、推・原発の人たちに投げかけるところからはじめてみよう。
といったことを、平川秀幸さんの「科学は誰のものか 社会の側から問い直す」を読み返しながら。今だからこそ、読んでおきたい本だなと思う。
また、ちょくちょく別の箇所を引用をすることになると思うけれど、今日のところは、以下のセンテンスを。

この世界の真理を追求する営みとして、「価値中立性」という聖なるベールに覆われ、俗世の価値観や利害関係とは無縁なものと思われがちな「科学」。テクノロジーとは違って、社会との共生成の実態は見えにくく、とくに科学者や技術者の間では、その現実から眼をそらそうとする空気も強かったりする。しかしその成果が本当に社会にとって役立つ「善い科学」となるためには、テクノロジーと同じように、共生成の現場にメスを入れなければならない。

そこで眼を向けたいのが、「リスクの科学」とそれをめぐる社会的論争(=リスク論争)だ。

テクノロジーの場合には、「人工物とその作動条件からなる技術――社会パッケージ」が共生成の合流点となり、さまざまな社会的・政治的効果や影響がもたらされると同時に、その設計に、利益構造も含めたさまざまな社会的意図が込められるかたちになっていた。

これに対し、科学の場合は、一見純粋に科学的に見える概念やロジックが合流点となり、科学的な意味と同時に社会的な意味や意図が含まれていることがある。その好例がリスクの科学であり、リスク論争では、一見「どちらの言っていることが正しいか」という科学的な事実関係を争っているようでいて、本当の争点は、社会的な問題、価値観や利害の対立の問題であることが少なくない。リスクの問題を適切に理解し、解決するには、社会的な側面にも眼を向けて、「本当に争われているのは何なのか」を考えなければならないのだ。

(中略)

問われているのは、リスクの評価や管理を行う政府の能力や仕組み、意思決定の仕方、万が一被害があったときの対応策や責任のあり方など、政治的・法的な問題であり、さらにその背後には、政府や、その意思決定に対して科学的な根拠を与える科学者たちに対する「信頼」の問題が見え隠れしている。

要するに一般市民は、「政府機関や科学者たちが、リスクに適切に対応するための能力や責任感、誠実さを備えているかどうか疑わしい」と考えているのだ。


今はもう、「備えているかどうか疑わしい」の段階を過ぎて、リスクが顕在化するという最悪の形を取った上で、「備えていないことが明らかになった」。
重大かつ非可逆的な損害を生じてしまった以上、科学的確率に基づく判断より先に、被害をさらに拡大しないための政治的意思に基づく決断のほうが優先される状況となっている。
だから、本当は、こういった状況になる前にこそ、この本の中身が生きてきたはずだとは思う。
今は、1年後、5年後、10年後に、リスクを話し合うための開かれた場を作るための指針として、心に留めておく。