96日目。「原罪」に大小の違いはある(と思える)。

原子力発電の再稼動の有無に関する2012年度までの電力需給分析
http://eneken.ieej.or.jp/data/3880.pdf

家庭の電気代1000円アップ…全原発停止なら エネ研試算
http://www.yomiuri.co.jp/net/news/20110614-OYT8T00277.htm

経済産業省所管の日本エネルギー経済研究所は13日、すべての原子力発電所が運転停止し、火力発電所で発電を代行した場合、液化天然ガス(LNG)や石炭など燃料調達費が増えるため、2012年度の毎月の標準家庭の電気料金が平均で1049円上昇し、6812円になるとの試算を発表した。
試算は、燃料の単価や為替の変動に応じて電気料金を上下する燃料費調整制度を考慮せず、電力会社が料金の抜本改定を実施しないことを前提としている。世界的に燃料の需給が逼迫(ひっぱく)したりすれば、電気料金が更に上昇する可能性もある。
今年4月のLNGの輸入価格などを基にすると、12年度の火力発電の燃料調達費は10年度より3兆4730億円増加するという。電気料金に転嫁すると、1キロ・ワット時あたり3・7円の値上げになる。

原発の総元締めだった経産省の息のかかった外郭団体の調査、という前提で。
そもそも、石油やLNGの値上がりで脅そうという魂胆が、もう通用しない。


試算に含まれて入ない電力会社の内部留保、合理化ではじき出される余剰金、原発運営・関連施設向けの補助金、etcを、「3兆4730億円増加」の補填に回すと、どれくらいコストアップを抑制できるか。
そういったムダの差し引きの計算を行うのは、経営の基本でしょう。


まー、でも、電力料金、月あたり1世帯1,000円の値上げなら、OK。
それで安心が買えるなら。
個人世帯なら、節電を行えば、400〜600円の値上げで済みそう。
雑誌1冊、単行本1冊、2リットルペットボトル2〜3本、といった我慢で済む。
もちろん値上げの前に、電力会社を徹底的に合理化させて、電源三法見直し+固定価格買い取り制度+地熱発電土地活用規制緩和の成立が、前提条件になる。
その条件を満たした上でなら、1,000円値上げでもいい。



原発、「集団ヒステリー」=石原自民幹事長
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110614-00000067-jij-pol

自民党石原伸晃幹事長は14日の記者会見で、福島第1原発事故後の反原発の動きについて「あれだけ大きな事故があったので、集団ヒステリー状態になるのは心情としては分かる」と述べた。表現が不適切との批判も出そうだ。
石原氏は、代替エネルギー確保や製造業への影響など原発を止めた場合の課題を挙げて「『原発推進なのか、反対なのか』という問いがあるが、簡単な話ではない」とも語った。 

過去、自民党が推進の旗を振ってきた原発政策こそ異常だった、という認識は皆無なんだな。「あれだけ大きな事故があったので、“原発を推進してきた罪の意識から思考停止”状態になるのは心情としては分かる」よ、自分も。
けれど、最大野党の幹事長がそれじゃいかんでしょ。
自分のポチに援護射撃させてる場合じゃないでしょ。→「石原伸晃の元秘書の杉並区議・大和田伸という人が、区議会で、反原発デモを例に挙げて「デモは迷惑だから規制すべき」とか言い出したとのこと!」




東京都内各地の空中放射線量測定結果について
http://www.jcptogidan.gr.jp/html/menu5/2011/20110525195904_7.pdf

Hitachi-Aloka Medical 日立アロカメディカル株式会社 - PDR-111
http://www.hitachi-aloka.co.jp/products/data/radiation-002-PDR-111


共産党が都内の測定に使用したシンチレーション検出器。
ただし、測れるのはγ線ガンマ線)のみ。
透過力が弱いかわり、より有害とされるβ線ベータ線)は検出できない。
日立アロカの製品は、業務用レベルで定評がある。個人用の携帯タイプで、どこまで正確な数値に迫れるか。
でも、気休めでも持ちたいところ。



Togetter - 「@hirakawah と@kikumaco の対話 欠如モデルほか」
http://togetter.com/li/145435

.@orcajump 英国で一番決定的なのは、科学と社会の間にある「ギャップ」は、知識のではなく、もっと根本的・広範な問題認識のズレや信頼の欠如にあることがエスタブリッシュメントにも認識され、PUS(一般市民の科学理解)からPE(公共的関与)に軸足を移せたことですね。
返信する RTする ふぁぼる hirakawah 2011/06/07 01:11:30

他方「34学会」や学術会議に代表される日本の学界は今のところ、問題の所在を「国民の科学リテラシーが足りないから」という、英国では96年に破綻した見方を続けてるように思います。これがそのうち変わるのかどうか。変わる可能性は相当に低そうだなぁという気がしてます。 @orcajump
返信する RTする ふぁぼる hirakawah 2011/06/07 01:14:57

「一般民の頭が悪いからだ」ではなく、「エリート意識にあぐらをかいた科学者が情報を抱えこんで腐らせ、外部と共有しない(共有できるデータに整理しない)からだ」。



6/3 | オンライン日記
http://162.teacup.com/sinopy/bbs/1232

私達は往々にして清浄な自然を文明が汚しているという二分法で世界を捉えがちです。しかし、それは実はおかしい。たとえば日本人であれば広がる水田の光景に豊かな自然をイメージすることが多いと思いますが、農業自体が文明化された技術の極みです。こうして自然と文明が相互に入り込んでいる事情を理解せず、「汚れなき自然」を理想視しても机上の空論となりかねない。宮崎監督はアニメ版『ナウシカ』が、そうしたありもしない「汚れなき自然」を賛美する物語となってしまったことを恥じ、コミック版でそのリベンジを試みたのだと私は考えています。

というのもコミック版ナウシカはアニメ版の設定を全て覆して行きます。森が担う浄化作用は自然の力ではなく、核戦争前の人類がバイオテクノロジーを利用して仕込んだ文明の技だったことが分かる。まさに自然と見えるものが文明の結果だった。そして人工的に浄化された環境の中で、ナウシカたちは生きられないことも分かった。ナウシカたちの身体は汚染された地球環境に既に順応しており、清浄さに耐えられなくなっていたことも発覚する。

そうした事実が次々に明らかになった後、コミック版の主人公ナウシカはアニメ版からは全く想像できない行動に出ます。核戦争の時代に使われた兵器を用いて、浄化のシステムを生み出し続けている旧人類が残したメカニズムを破壊するのです。こうしてナウシカの物語はアニメ完成からなんと10年後に大団円を迎えます。

このコミック版でナウシカが最後に使った「生命とは汚れることだ」と言う言葉は印象的です。それは既に放射線で汚れてしまった自分たちの命の現実を指すだけのものではなかったと個人的には考えています。

そんなナウシカの言葉と重ねてみたい言葉が私にはあります。第二次大戦で原爆を作り出したアメリカのマンハッタン計画で重要な役割を果たしたオッペンハイマーの言葉です。彼は自分が作り出した原爆がヒロシマに投下された後に「物理学者は罪を知った」と述べました。

彼がそこで使った罪という言葉をどう考えればいいのか。科学技術には二面性があります。技術は人類の生活環境を向上させました。自動車や飛行機は移動能力を飛躍的に高め、医学の進化は病気の苦しみ軽減してきた。しかしその一方で原爆を作り出すのも科学技術です。しかし文明の利器を作りつつ一方で悪魔の兵器を作ることだけが科学技術の二面性なのではない。科学技術は天災をリスクに変えます。雨が降って濡れる。それは天災です。そんな天災に対して人類は傘を発明し、濡れなくてすむようになった。人間が技術を使って環境に働きかけ、生活しやすくした一例です。

しかし、めでたしめでたしとはゆかない。傘を発明してしまった以上、雨に濡れるかどうかは傘を持って出かけるかどうかになる。天災であれば避けられなくても仕方がないと言えるが、傘を発明してしまったせいで、雨に濡れたのは傘を持たずに出かけたのが原因の人災とみなされる。

社会学者のニクラス・ルーマンはこれについて科学技術が天災を人災化すると言いました。つまり人災を増やすのは兵器だけではない。あらゆる科学技術が人災を引き起こす危険性を潜在的に持っている。しかし、ならばそんな科学技術など捨ててしまえと言えるのか。原爆を解体するにも原発事故を処理するにも高度の科学技術が必要となる、科学技術が生み出した災厄を解決するために科学技術を用いなければならない。どこまでも科学技術にまみれて自転車操業を続けなくてはならない宿命を私たちは負ってしまっている。

そんなかたちで人類につきまとう科学技術を開発したことをオッペンハイマーが「物理学者は罪を知った」と表現したのだと考えるならば、その罪とはキリスト教の原罪にも通じる概念なのではないでしょうか。科学技術によって文明の恩恵を受けるのと同時にリスクをも抱え込まざるをえなくなった人類史の起源を、キリスト教の世界観の中で遡れば、それは智恵の実を食べ、楽園を追放されたエピソードに至るのでしょう。智恵は技術を生み、技術をもって人間は自然環境に働きかけ、環境を利用することを可能にしましたが、ついには原発や原爆をも生みだしました。キリスト教の原罪という考え方は科学技術を手にしてついには悲惨な原発事故を引き起こし、その後処理もまた智恵と技術を使わずにはすまされない人間という存在の本質をも説明するものではないかと私は個人的には考えています。

そしてコミック版のナウシカもまたそうした人間の原罪に向き会おうとした作品だったのではないか。たとえば最近はエネルギーシフトの必要性が言われる。太陽光や風力を使えばいいと言われる。これについてもナウシカの風の谷は風の力で発電をしていたのであり、その意味でエネルギーシフトの時代を先駆けている。しかし風の力を使っていたナウシカが、コミック版の最後で自分たちが生き残るために文明の火を使ったのはとても象徴的です。

確かに太陽光や風力は確かに自然の産物ですが、それをエネルギー源として使うこと自体は紛れもない文明の技です。火はダメで風はいいという短絡的な議論は避けるべきだと宮崎監督は言いたかったのではないか。たしかに再生可能エネルギーを利用する方法を選ぶのであれば、その文明の技が、原発がそうだったように後に災厄を私たちにもたらすことがないか調べ、あらかじめ対応しておくことが求められるでしょう。私は再生可能エネルギーの可能性を信じたいとは思いますが、風や太陽光を使うからといって科学技術の原罪から逃れられるわけではない。

もうひとつ、ナウシカが火を使ってでも自分たちが生き残る道を選んだということも重要です。最も大事なのは生きるという目的の成就であり、そこから生きるために何をどう用いれば良いのかという手段が選ばれるべきでしょう。風力発電は汚れなき技術がだからいというのは、そもそも汚れなき技術などないのだから論外ですが、それを差し引いても、手段の議論は目的の議論よりも後に来るべきでしょう。そしてその順番を守った時にそれは汚れることを覚悟したギリギリの決断になるかもしれない。そんなことをナウシカの物語は示しています。

これは私たちの今の在り方に対しても反省を促すものではないでしょうか。私たちは実際に悲惨な状況にある人々の生き死を飛び越えてエネルギーシフトを話題にし過ぎていると感じることもあります。原発の受容史を調べたことがある身としては、その熱狂ぶりが原発受容期の熱狂に似ているのが気になります。ここは手段の議論を拙速に行うのではなく、あくまでも東日本大地震で亡くなられた方々、被災されたかたがたの悲劇に寄り添って、そこから考え始める、そんな必要があるのではないか。そんな思いをこめて東日本大震災で被災された方々への黙祷で礼拝を終わらせたいと思います。

火力や水力と異なり、原発の甚大なリスクは、イザ、事が起きた場合に放射能よにって及ぼされる被害が、理論的に、かつ過去の事故から予め予見されたリスクであって、だからこそ、罪深い。
どのエネルギーを利用するにしても「原罪」がつきまとうとして、一方で、「原罪」に大小の違いはある(と思える)。
原発による電力で繁栄を築いた日本なのだからもう原発を捨て去れないのか、あるいは、繁栄の陰で被爆リスクを背負った汚れ仕事を底辺の労働者に押し付けてきた「原罪」をもう見て見ぬふりはできないと考えるのか。
世界はすでに汚れきってしまったと捉えるのか、まだ、方向転換の余地はあると考えるのか。
原発の是非は、個人の世界観がおおきく関与してくる問題でもある。