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    • 講談社現代新書から出た「原発社会からの離脱 自然エネルギーと共同体自治に向けて」の出版記念イベント。
    • 宮台氏の言う「自治」について、宮台氏自身はどこまで具体性を持てると考えているのか? 震災前、「自治」について、宮台氏がどこまで具体的な提案・行動をしていたのか?
    • 飯田氏は、原発の放射性の危険性よりも、むしろ、まったく原子力について勉強していない利権まみれの「原子力ムラ」や、放射性廃棄物の再処理・高速増殖路の経済非合理性などのほうに、より強く幻滅を感じているように見えた。
    • 飯田氏が、イデオロギーにまみれた「脱原発」のレッテルを貼られ、目標である自然エネルギーの普及の面で足を引っ張られることを心配する言葉を何度か発していた。表現規制問題で、規制反対派が支持層を広げられない問題と、だぶって見えた。
    • イベントの最後に、飯田氏は、「どうやったら勝てるか」という観点から物事に取り組んでいると言った。勝つ、つまり、己の目標(飯田氏の場合は自然エネルギーの普及)を達成するためには、「原子力ムラ」の内部の関係者や電力会社、行政官僚とも時に手を取りあってきたと。この柔軟さは、規制反対派には乏しい。現状で、圧倒的に。
    • 原発賛成」「原発反対」あるいは「規制賛成」「規制反対」二項対立の図式から、お互いに知恵を出し合う関係への転換。
    • ただ、飯田氏の手法を参照することは必要だとしても、それを移植するように表現規制問題に持ってくることは難しい。自然エネルギーの普及のように、インセンティブ設定で経済合理性に基づく市場の自発的参入を促す、といった方法が、表現規制問題ではほぼなりたたない。
    • 表現規制問題で、規制・賛成推進派と規制反対・慎重派が、それぞれの相手方と利益を共有できるような経済合理性に基づくインセンティブを設定しづらいのは、なぜなら、ある表現のわいせつ性、芸術性を、数値で評価することは不可能だから。わいせつ性や芸術性の基準や尺度が時代によって変わるから。「わいせつ税」や「芸術補助金」を設定できないから。補助金については、少なくともそれによって、行政が音頭を取ったコンテストや補助金によって、表現が市場競争力を高めたことは過去にない。
    • その代わり、使用者=読者を制限する方向で、成年マーク、18禁コーナー・棚、紐やシールにより小口留め、レジでの年齢確認、といった「ゾーニング」が行われてきたが、対症療法の域を出ない。ゾーニングは、結局のところ、「この中でなら、好きなようにやっていいだろ?」という治外法権を認めさせるもので、規制推進派が迫害視するものそのもの(性描写、反倫理描写)を見直すものではない(もちろん、見直す合理性や必要性は全くないが)。これは、火力発電所の公害問題で、「ばい煙口にフィルターをつければいいでしょ?」という発電所側の対応と同じ。ばい煙の有害物質を問題視する環境保護派にとって、目の敵にされる状況はあまり変わらない。
    • 自然エネルギー普及のインセンティブが経済合理性に基づくのに対して、政治的調整による妥協の産物で乗り切ってきた。「原子力ムラ」が経済合理性の議論を封殺してきたように、本質(たとえば、わいせつ性と芸術性の関係)の議論は先送りにしてきた。
    • しかし、妥協の産物の「ゾーニング」は、表現規制すべきターゲットを広げられてしまえば、あまり意味をなさない。結局、「どういった表現なら、(規制推進派と規制反対派が)お互いにターゲットとして妥協してもいいか?」という、実質的に後退した議論にすりかえられてしまう。
    • 表現規制問題における、出口の見えない二項対立を脱するために、自然エネルギー普及における経済合理性インセンティブのようなものの発明・導入は可能か?