「名無しのヒル」(シェイマス・スミス)ハヤカワ文庫

 「Mr.クイン」「わが名はレッド」でノワール(犯罪もの)に革命を起こした、と煽られたスミスの3作目。アイルランドベルファスト出身だという作者の自伝的小説という触れ込みである。
 綿密かつ、不測の事態にも計画を絶妙な計算高さで修正していく主人公の悪辣さにしびれた前の2冊とは違って、「名無しのヒル」には、ストーリーなんてものはないと言っていい。
 IRA独立運動、テロ活動が一番活発だった1970年代前半のアイルランドで、無実の容疑で「予防拘禁」された、主人公ヒルの収容所暮らしの日々。
 映画「大脱走」ばりの穴掘りと脱出行や、収容所を燃やしての大騒ぎ、収容者の何倍もの数で警棒を打ち下ろしてくる英軍、といったシーンもあるけれど、それでヒルたちの待遇が変わるなんてことはない。ヒルの友人のロディが少林寺木人拳ばりに両側に待ち構える英軍の警棒の列に歩いて向いなかばで立ち崩れるのを収容所仲間がひきあげなんてのは、確かにほろっとくるが、それからも収容者暮らしは続き、拘禁当時17歳だったヒルは19になる。
 つまり、帯にもあるとおり、その2年間を書いた(獄中)青春小説というのが、一番しっくりくるんだろう。収容所仲間にはバカで間抜けな人間は多いけれども、イヤなやつは一人も出てこない。「このミス」のトップ3に入った、あの「クイン」と「レッド」の作者に期待されていた新作かどうかは分からないけれども。

名無しのヒル (ハヤカワ・ミステリ文庫)

名無しのヒル (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 ちなみに、ここからは完全な余談。
 聞きなれない「予防拘禁」という言葉は、翻訳者が原語を自分なりに解釈した訳語なのか、と思っていたら、戦時中すでに日本で「治安維持法」と並行して運用されていた「予防拘禁手続令」(参考URL→http://www.geocities.jp/nakanolib/kisoku/jrs16-49.htm)があった。
 さらに余談だが、目に付いたので紹介しておくと、さきごろ死刑執行された宅間守被告の池田小学校殺傷事件などが成立を後押ししたらしい、現代の予防拘禁法などとも呼ばれる「心神喪失者等医療観察法」が来年施行されることになっている。
 参考:グーグル検索結果「精神医療と心神喪失者等医療観察法 ジュリスト増刊」(著:町野 朔)