「波状言論S改」刊行記念トークセッション・ゼロ年代の批評の地平――リベラリズムとポピュリズム/ネオリベラリズム
http://www.kinokuniya.co.jp/01f/event/shinjukuseminar.htm#seminar_28
刊行記念なのだが「S改」は読んでない。「限界の思考」はセッション終了後にロビーで買ってまだ読んでない。新宿紀伊国屋で、ふと席が余ってればと思ってホールのある4Fに立ち寄ったところ、まだ残ってたので後方から3列目の席で聞いた。ちなみに3列前に宮台真司が嫁さんといっしょに座ってた。関係者席がないところがこのセッションの性格を表すよう。
セッションを通したテーマは「分析してそれでどうするのか」(東浩紀)。どこにおいてもこの命題が閉塞感をともなって議論の場を覆うということを再確認。東はそれが見えず、パネリストの山本一郎や北田暁大や斎藤環にその手がかりを期待して話を振っていたようだが、逆に東のそれを見せろ何が動機なのかという振り替えしに、そのための基準点が見えないことが今の自分の問題と返し、観客席や他のパネリストからすると煮え切らない印象を強く残した。けれども、東や北田のような批評家の基本はとにかく分析、脱構築に徹することが正義らしい。そのあたりの姿勢が批評家にとって不可欠なものなのかは感覚的な疑問を残した。
山本が例えとして持ち出したニートの社会復帰対策の案はあるのか、という問いに短期的視点での対策案は出せない出してもしょうがないというような返答をよこした東に、この場ではマーケティング畑の立場をとっていた山本との齟齬をもっとも感じた。また斎藤がこちらも例え話として持ち出した、ニートにある種のロボトミー処置を施して社会復帰可能ならそれはありか?という問いに、当事者が処置が何を意味するのかをきちんと分かった上でならアリじゃないかと返した東。原理では完全に否定しきれないという答えはともかく、自己決定という建前で実際には社会的に強制されていくのではないかという反論もできるがそれは“ミニマムな”反論と位置づけていたことに、ああこれが人文アカデミズムの人なのかなと自分の感覚とのズレを見た。それはある問いがなされた後に出てくる(現象面からの)反論であって、最初からあるはずの原理で退けられないと正面からの反論にならないということなのかもしれないが、対処療法的であってもミニマムとまでは思わず並列して展開可能な反論だと思うので。まあ、このあたりのことは東の立ち位置を確認できたことの意味のほうが大きいので、初見の今回はそれはそれでいい。
東の著作は一作も読んだことがないが、批評家の基本として現状分析に徹してきた態度を一歩進めて、北田といっしょに批評雑誌をつくるという。今は、その雑誌を創刊する目的を詰めている段階のよう。分析した上で、どのような打破のためのオルタナティブ*1 を提示してくれるのか。これまでの東には特に興味はなかったが、一歩踏み出すというこれからの東には興味がもてる。
ネット上の言論の各々の分析は、今度も頭の整理に非常に役立った。やはりこういう生声で直接届くトークセッションの醍醐味の一つ。以下、大意。
斎藤環:(何ごとをもネタとして消費し)過剰にコミュニカティブであるがゆえに変化せず成長がおこらない、変化を強いる力を拒絶する、(ほかに寄りかかれそうなものがなくコミュニケーションも絶やしたくないため)保守主義や嫌韓流を仕方なく選択させられている
山本一郎:将来への期待感の無さについてのつぶやきがネット上の言論を保守が強いように見せさせる(どうせなにも変わらないなら現状維持にとどまろうとする)、何にでも批判的な態度をネット上の言論はとるように動く、韓流ブームを支持する30-40歳代の主婦層を批判するための態度としての嫌韓流(ネットと親和性が高い層と相容れにくい層としての主婦層へのカウンターのための)
斎:過激な主張ができれば(思想は何でも)かまわない、保守ではなく(そういったネット上の)保守的態度(が何によって生まれ何を目的にしたものか)への考察がまだできていない
北田暁大:どうでもいい話題を自分の実存のために利用する、韓流ブームと利害の対立する人が支持する嫌韓流は極めてアンチ(アンチ巨人と似てる?)
東浩紀:分析はできるけれど次のアクションが打てない
斎:どうしようもなく正しい認識が繰り返されてしまう、小泉は完全な分裂主義者
山:ポピュリズムに対抗する材料がない
斎:小泉のフィクション性を支持する人々(を存在させてしまうやっかいさ?)
東:オルタナティブを提示するのは僕ら(=東や北田のような批評家)にとって乱暴なこと、だから口ごもってしまう、脱構築していくのが倫理だった僕ら、言わないことが正義だった、でもそれでは先が見えなくなってしまった
北:どっちかにつくことの暴力性ばかりを教え込まれていた
東:ポピュリズムが幅をきかせる今の社会で理想は回復できるのか?
↓(返答)
山:理想は極めてクリエイティブな作業なのでフツウの人は突き詰めていくトレーニングをされてないし発表の手段をよく知らない、それはアカデミズムがやっていくことでもあるがやれていない*2
斎:(オルタナティブができたとして)ヤンキー(の人)、ファンシー(の人)にどう届かせるか
北:メタぐらいしか正当性を実行する手段がない*3
東:分析してどうするのか、大きい話をしないと枠は組み替えられないがそのためのカードはまだ全部そろっていない
☆おまけ
(観客席で東から感想を求められて)宮台:(若い批評家たちの)閉塞感がよく伝わってきた、だが批評家の間で過去何度も繰り返しされてきたことなのでたいしたことではない、みなさんに期待したかったのは閉塞感を埋め合わせる可能性だったがそのための知恵は伝わってこなかった