デモで政策は変わらないけれど。


5ヶ月ぶりにデモ。
メトロ東高円寺駅からJR阿佐ヶ谷駅までを3時間ほどかけて歩く、?有象無象?という団体(http://uzomuzo.com/)の主催。
高円寺界隈が根城の素人の乱も多少からむ。
5ヶ月ぶりの理由は、1/3が、素人の乱がからむデモが9/11以降、行われておらず、なんとなく他系列のものに行きそびれていたこと。
もう1/3は、寒かったので。
残り1/3は、寒いので、外に長時間いなくていい、別角度のやり方をいろいろと試していた。
たとえば、「おひさまファンド」の募集する小水力発電の投資募集(http://www.ohisama-fund.jp/contents/fund_about.html)。とりあえず1口50万円を突っ込んだ。来年の春から7年をかけて、3%を上乗せした51.5万円が帰ってくる予定。今年の春に水門が開き、売電がはじまるので一度、観光がてら観にいきたい。
あとは、たまにパブコメかいたり、霞ヶ関に用があるとき、ついでに経産省前テントにカイロを差し入れたり、ちょぼちょぼと。
回り回って利益が上がること、できる範囲のことから。
今日のデモ、先週末に山本太郎らが集めた1万数千人の1/10くらいの規模ではあったけれど、消費者運動がかつて盛んだった杉並らしくおばちゃん・おばあさんらの参加がめだつ、割合のんびりな行進で、週末に空いた時間でちょろっと混じってみようかというには、このくらいの雰囲気がいいのかもしれない、と思う。
今日も今日とてぞろぞろと出てきたポリスさえなければ。
ある列の後ろに、赤ランプを乗せたワゴンやトラックがなぜか7台ものろ〜っとついてきていたのは、去年のデモでも見なかった光景だった。
なんだろ、「寒いので暖かい車の中がいい」「年度末に向けて予算を使っておきたい」とか、そういうことなんだろうか。





デモと言えば、スタジオズブリジブリの書店配布無料冊子「熱風 http://www.ghibli.jp/shuppan/np/」の今月号の特集は、ずばり「デモ」だった。
その中で、河野太郎の「デモ考」という寄稿の論旨に気になるところがあった。
先に触れておくと、日本の原発神話を推進してきた自民党に所属する河野は、それと全く別の方向を目指しており、その方向については全く賛同する。2/9に河野が所属する「エネルギー政策議員連盟」は、50年までに電力需要量の半分を再エネで賄うこと、新規原発建設中止、六ヶ所村使用済み核燃再処理工場廃止、「もんじゅ廃炉などを盛り込んだ政策案をまとめた。
河野のおおまかな論旨は、実現可能な政策をロビー活動によって政治家に働きかけるほうが有益で、「国会議員が誰も行われていることすら知らないようなデモに、原発政策を変える力はありません。」「直接、地元の国会議員に事務所に押し寄せて、あなたの思いを伝えてほしいのです。」(原文ママ抜粋)というもの。
原子力ムラが議員会館回りのロビー活動で巻き返しを図っていることのほうが、よほど効果があるという下りは、2010年の都条例問題で、5月の都議会で改正案が否決された後、都の青少年治安対策課が夏の間に八十数回もの「有害図書」説明会を開き、PTA等の組織票をもつ団体に根回しを図って民主の及び腰を誘い、12月の都議会で見事逆転可決に導いた一連の流れを思い出さずにいられない。
そういう意味では、ロビー活動はまさしく不可欠だ。やれる範囲で皆、関わるほうが絶対にいい。
けれど、「銀座を100万人の人が行進するのなら、そんなデモは大いに意味があります。」(抜粋)が、そうでないデモに意味はないだろうか。意味が薄いと言えば薄いかもしれない。でも、意味がないと言ったら、それは違うように思う。
ロビー活動のような直接の働きかけではないが、デモは空気を変える。なんとなく言いづらいことを、「言ってみようかな?」という気にさせる。自分一人がやったってしょうがない、と思っている人に「とりあえずやってみるか?」と思わせる。
そう感じた中の1,000人に1人、1万人に1人が、将来、ロビー活動までたどりつくだろう。
もちろん、デモをするまでもなく、具体的なロビー活動ができるならすぐにとりかかればいい。
段階を踏む必要がある大方の人にとって、今日のようなゆるい雰囲気のデモは一つのきっかけになる(逆に、昨年9/11のデモのような、二桁の“公妨”容疑逮捕者を出すデモは、デモを倦厭する空気をつくりだす。だからこそ警視庁は大量検挙に踏み切った)。
ちょっと極端かもしれないが、今日は天気もいいしデートの前にデモでも、というくらいの空気にならないと、大多数の人にとって活発なロビー活動なんて想像もつかないだろう。
そういった一つのきっかけという意味では、河野所属の「エネルギー政策議員連盟」の提言も、同じようなきっかけのはずだ。
連盟は、提言内容を、自民の「総合エネルギー政策特命委員会」に反映させるよう求めたが、結局、2/14の会合で特命委は中間報告案を、今後10年かけて原発政策の結論を出すと、脱原発どころか推進・継続の道を示すことさえ放棄した。言わずもがな、再処理・核燃サイクルの問題には手をつけずじまい。
一方で、中間報告案は再エネ普及に力を入れることは盛り込んでおり、連盟の提言の一部が参考にされた形になった。
だから、連盟の提言は脱原発を政策とさせる第一歩だし、デモはそういった政策を政治家にまとめさせるロビー活動のための第一歩。どっちも、やれる範囲でやればいい。



ただ、自身が敏腕の実務家という理由以外に、国会議員という立場がある河野は、デモを「おおいにやりなさい」と言いづらいとは思う。
だって、デモは、つまるところ国民の直接行動だから、間接民主主義に基づき選ばれた政治家の存在を、ないがしろにしかねないものだから。本来、デモになんか頼らなくてもいいように、国民の代表として自分達政治家がいるわけだから。少なくとも、政治家なんて信用できないと言われている、というふうに受け止めておかしくない。
特に、政治家が官僚・司法・経済界・マスコミと一体化している日本という国では、ある一つのカテゴリー(たとえば東電)をターゲットにしたデモは、「原発やめろ」という明示されたメッセージの裏に、そのまま一体化した体制全体への「調子乗ってんじゃねーぞ?」という意思表示を公然と秘める。
だから、いつ自分らもターゲットの矛先になるか分からないデモを、政治家という職にある河野が快く思わないのも当たり前と言えば当たり前だ。
同じ号の「熱風」に、「パリのデモから考える」を寄稿している哲学者の國分功一郎は、「なぜなら、デモは民主主義のために行われているわけではないからだ。民主主義という制度も含めた秩序の外にデモは触れてしまう。そうした外を見せつけてしまう。だからこそ体制にとって恐いのだ。」(抜粋)と述べる。
そういうことなんだと思う。
自分は議員としての河野に期待しているし応援する。世田谷区長として公共施設使用電力の競争入札制度と一般家庭使用電力への早期拡大を国に要請した保坂展人表現規制問題の頃から継続して応援する。小水力発電=再エネ事業に50万円を投資した。それでデモもやる。



デモで政策が変わることはないけれど、それでも「調子乗ってんじゃねーぞ?」と言いたいじゃない。