ミリオンダラー・ベイビー(クリント・イーストウッド監督)

 ボクシングが好きでボクシング映画も好き、町山氏の事前評でラストのオチが米国で物議をかもしたらしい、ということで初日上映を、「黒神」サイン会と眼鏡学園の合間に、新宿松竹会館で。



 途中までは面白かった。とても大味な試合展開で、スキルに見るものはほとんどなかったが、成長ストーリーとしてよくできてるし、そもそもボクシングで成り上がっていくストーリーで、個人的にポイントがあがっている。
 その悲劇が、前半と後半を分断する途中までは。



 後半でヒラリー・スワンク演じる女性ボクサーに訪れる悲劇を描くのに、それまで数年間に渡った絶頂期が何故、ボクシングである必要があったのか。互いがボクシングに賭けていたからこそ、最終的にある選択をイーストウッド演じる老トレーナーがしなければならなかった、という関係性が読み取れなかった(明確には)。
 ボクシングを題材にしなくとも、この映画はつくれた。自分には寓話性が高過ぎた。


 女性ボクサーの家族や、タイトルマッチの相手が、理解のない人間として、あるいはあからさまな悪役として造形されていたのも、ウソ臭さをかもした。




 ここからネタバレ半分ほど入ります。











 最後の老トレーナーの決断までに、女性ボクサーは1度、老トレーナに要請をし、次に自分で実力行使をしている。臓器移植の問題で、臓器を提供したくない理由の一つを、自らの意思以外で合法的に殺されたくないから、としている自分をかえりみると、明確に意思表示をしている女性ボクサーにその選択をした老トレーナーの行動は、アリ、になる。
 しかし、自らの意思以外で合法的に殺されたくないと考えるのは、それ以前に暗黙の前提として、自分で死を選ぶことはどんな状態になっても十中八九ありえない、と今現在の自分が考えているからだ。
 人には、自らが未経験のことにでも想像を及ばせることができる知恵がある。だが、選択の重さということで言えば、ベッドの上で女性ボクサーが言葉にし実行したことと、老トレーナーが選択したことほどの決断や行為を、要求されたことがない。
 だから、この映画の後半について、今現在の自分はまだ保留するしかない。





参考:「ミリオンダラー・ベイビー」公式サイト