ミュンヘン(監督:スティーブン・スピルバーグ)
新宿ピカデリー3で18:40の回。
「俺を殺しても第2、第3の活動家が意思を継いで、いつかお前らを打ち滅ぼし俺たちの国をつくる!」というアテネでPLOかPFLPの若者がモサドの暗殺チームリーダーの主人公(とは知らずに)アヴナーへ発したセリフ(大意)は、闘争の60年代、冷めた70年代を過ぎて、放蕩の80年代、日本のアニメでは悪者のボスが吐くセリフに貶められていたわけです。
現在ほぼ読み終わった「白土三平論」のⅥ・「カムイ伝」の章の237Pから言葉を借りれば、
(中略)かくして歴史は『忍者武芸帳』の最後の影丸が予言したように、英雄たちの無限の死と再生の劇として、反復のうちに続けられていくことだろう。
ということを、かの若者は申していたわけです。60年代前半に紡がれた『忍者武芸帳』とシンクロするのは当然なわけです。
けれども、71年に終了した「カムイ伝」では、百姓らの一揆は最終的に多大な犠牲を出し、舌を抜かれた正助は落ちた英雄としてかつての仲間から石つぶてを受けて、「カムイ伝・第二部」で土木工事の指揮官として再登場するまで、生死さえ不明だったわけです。
日本国内では、革命の意思が後進に受け継がれていくという神話は忌避され解体され相対化されパロディ化されて、感銘を与えるものではないわけです。
配給会社は、「プライベートライアン」や「シンドラーのリスト」に連なる映画としてこの「ミュンヘン」を位置づけているようですが、一つ異なるのは、前の二つは終わった戦争の話ですが、パレスチナの解放運動、反シオニズムは現在進行形なわけです。しかも、ハリウッドのある米国が深く関わる形で。
また、社会主義、共産主義、赤軍派、世界同時革命、そういった理念が過去の遺物となりつつある今において、対シオニズムの活動は、イスラム原理主義やパレスチナの地に自立国家を設立するという地政的に分かりやすい形で、英雄の再生を繰り返す理念的原動力を失ってないわけです。
非常に凝った考証がなされたレベルの高い70年代風俗、文化にのっとった映像のせいで、意識は心地よく30年前にトリップしながら観劇してしまうかもしれませんが、それは当時の時代背景として不可分にあった社会主義、共産主義、核の脅威といった「ミュンヘン」という映画のテーマと密接にからむはずのものをばっさり切り捨てて、モサド暗殺チームのリーダーという唯個人の葛藤のみにクローズアップしているため、ということも気づいておくべきことなわけです。
いまでも現在進行形である非常にセンシティブなテーマを扱っているはずなのに、あまり「重く」なかったのは、そういった料理のされ方が関係しているのかもしれません。
それこそ、「カムイ伝」から農本主義の正助と身分制度に葛藤する竜之進の物語を削って、途中からほとんど姿を見せることのなくなったカムイの物語だけに焦点を絞っているような面持ちなわけです。
つまり「ミュンヘン」は「カムイ外伝」だったというわけなのです。