202日目。脱・反を無視する既存システムの硬直性。

いけなかった9.19明治公園集会、
70年代以降の過去40年間に沖縄を除く本土で行われた無料集会で、
過去最大だったらしい(コミケ除く)。
9.11新宿デモの十数倍の人数を集めた、
その9.19明治公園集会が、
一人の逮捕者も出さなかった。
9.11の12人逮捕がいかに異常だったかが分かる。
5万人でも6万人でも、コントロールできる集会を、POLICEが恐れることはない。
2,000人でも3,000人でも、それがコントロールをなしえないとなれば、無数のカメラが回っていようが徹底的につぶしにかかる。



「僕は非常に、人間って言うのはこんなもんだよという絶望的な姿を丸裸にするような映画を撮り続けてはいたんですけども、それだけではもうやっていけないなというのが3.11以降の自分の映画のあり方で、それをやっぱり「ヒミズ」は自分の中の映画史、映画を作り続けてきた中で非常に転向したというか変わらざるをえなかったということです。それは1ついうと絶望していられない、へんな言い方で言うと希望に僕は負けたんです、絶望に勝ったというよりは希望に負けて希望を持たざるをえなくなった。だから簡単に言っちゃって、「愛なんてくだらねえよ」って言ってたやつがすごい人を好きになって、愛に白旗を揚げた、愛に敗北。そういう意味ではもう絶望とかはいってられなくなったなと。それは絶望に打ち勝ったというよりは希望に負けたという。希望を持たざるをえなくなったなという。これからはただ単純に絶望感だけではやっていけないっていう、そういうテーマです。」

今の自分の気持ちに近い。
少なくとも、
ココロの内壁にこびりついていたニヒリズムの糟は、
ぽろぽろとこそげ落ちていっている。



財務省お手盛り言うなりの野田政権と、それをよいしょするメディア、財界、一部の有権者を見て、
原発事故以前のやり方の延長線上で政(まつりごと)と暮らしをつづけていくことで、
あたかも、
“おおかた大過なくやってこれたこれまでのような生活をこれからもつづけていけるんだ”と、
そんなふうに己に錯覚させたいのだろうか、と思わざるをえない。
そんなこと、ありえないのに。
そんなこと、もう心底ムリだということが突きつけられてしまったのに、
というか、それゆえにか、
ますます過去の延長線に固執しようとしてしまうんだろうか。