「ひと夏の経験値」(秋口ぎぐる)富士見文庫


 どーでもいい自分語りを半分からめて。




 夏休み限定で俺達のキャンペーンに絵に描いたように理想の女子がきれくれたんだ!ってフィクションは、それでいい。オタクがちょっと可愛い女子に自分を無防備にさらけ出す痛さやおかしさは、いくらもマンガや小説のフィクションで繰り返し目にしてきた。で、本題はそっちじゃないんだ。この本の中心に据えられてるはずの、TRPGに興じる彼らの実際の様子。これを、ロールプレイしてるのかしてないのかはっきりしない、劇中劇のような描写にしてしまっている点。おそらく「演じている」はずの主人公と友人3人と理想の女子の計5人の、傍から見たプレイの様子を意図的に描写してない。プレイ中の鍵カッコの中のセリフは、高2の夏休みに公民館でTRPGに興じる彼らと彼女が発しているものと思わせる雰囲気なのに、地の文では、セリフの主語はプレイする女戦士としてあるいは無口な魔法使いとして発したものとして説明する。ねじれた描写。それ、そのまま書かなきゃ! TRPGの一面としての他人から見た痛さを書こうと思うなら。それを書いてない分、作者のスタンスはまだTRPG寄りにあるし、TRPGを客観的に物書きとしての視点で見てない。愛憎半ばが愛に偏ってる。もし、初心者でありながらいっしょになって演じてくれる女子がいたら、その理想の女子は、もうすでに一般人じゃない。



 主に「D&D」(緑のコンパニオンまで)や「指輪物語」や「T&T」をプレイしていた*1自分の中学時代のTRPG熱の衰退は、高校受験という理由をのぞけば、友人とはいえ人前で「ごっこ遊び」が出来なくなっていったことにあったと思い返す。会話の90%はプレイするキャラクターのなりきり。20面体とアーマークラスの判定でモンスターの攻撃がHITすれば、もちろんキャラクターとして悲鳴奇声をあげる。女キャラをプレイ中は女言葉で。うあぁぁぁ……。そんな集団に女っ気があるはずもなかったが、なかったからこそ、TRPG以外でも知己の間柄だこそ、「ごっこ遊び」としてのTRPGに没頭した。ゲームシステムを堪能する派のプレイヤーにとっては邪道もいいところだろう。単に、友達づきあいの延長線上でじゃれ合っていたと言われても、返す言葉はない。仲間内以外の人間にプレイしているところを見られたら、悶絶していたろう。というか、プレイルームは誰かの自宅の居間や応接間なことが多かった(自分の個室はあってもたいてい狭いので、複数人でやるには広い部屋のほうが都合がいい)。家人が中学にもなって「ごっこ遊び」に興じる息子たちを間近に見てどう感じていたか、もう知る由はない。



 案の定、混線してきたが、演技が描写されてないこの本のプレイシーンは、自分からすると、あまりにお行儀がよろしい。理想に過ぎる。だから、本質的に痛くない。TRPGオタクの女子免疫皆無の描写より前に、プレイスタイルが自分にとってのリアルと重ならない。フィクションにフィクションを積み重ねている。近所の大学生が主催していた定例会は、チラシを入手しただけで、仲間内の誰も参加しないまま、熱は冷めていった。



ひと夏の経験値 (富士見ドラゴンブック)

ひと夏の経験値 (富士見ドラゴンブック)






  • 2-1.演技 - FLS [TRPGマニュアル]

 http://wiki.ghost.ne.jp/nwn_lib/wiki.cgi/RPG?page=2-1.%B1%E9%B5%BB

PCを綺麗に演じる事自体をRPGだと思っていると、演劇会になってしまい、全くゲームにならない可能性があります。
(ゲーム的要素を軽視しがちになるという事です。度が過ぎるとダイスを使わないようにプレイを誘導したり、キャラクターシートよりも設定を重要視してしまったりします)
さらには演劇会に凝ったプレイヤーだと自分の演技を見ていないPCに対して無能扱いしたり、DMに「なんで俺はこんなに演技しているのに見てくれないんだ」などと、勘違いした事まで言い出す人もいます。
そういったプレイヤーに出会った場合には、優しくしてあげましょう。
優しさは大事です。

 http://www.ne.jp/asahi/miho/onioncrafts/trpg.html

忠告しておきますが、リプレイを読んで「TRPGってこんなものなんだ!」と思わないように(笑) リプレイはしょせん、編集された読み物でしかありません。
実際のプレイは、泥臭くてしんどくて混乱していて、思うようにはいかないものです。あなたのキャラクターが活躍できるとは限りませんし、任務が成功する保証はありません。しかしそこがまた楽しいものなのです。何しろ相手は生身の人間ですからね!
ですから、キャラクターの皮をかぶっている(笑)時でも、人間としてのマナーは守りましょう。
最近多い例ですが、キャラ演技を優先するあまりメンバーを不快にさせてはいけません。TRPGなりきりチャットではないのです。全員が楽しめてこそのセッションなのですから、場の雰囲気を読みましょう。基本的には『ロールプレイ=キャラ演技』ではなく、『ロールプレイ=場の空気読んで動く』なんですよ。基礎ができてこその応用です。
イタイ具体的としては、マイキャラの過去や裏設定をセッション中に延々と話したり、「だってそういうキャラなんだもん!」という利己的な理由で、何の相談もなくパーティーに不利な行動をとる、など…。逆に、まったくロールプレイに参加しない『ただいるだけ』の人も困ります。GMの裁定に逆ギレする不届き者は論外(ルールブックに記載があるなど、根拠がある場合は思う存分論破してください! それでもダメならおとなしくGMの裁量に従うこと)。心当たりがある人は、間違いなく他のメンバーから煙たがられていますので、お気をつけあそばせ。
『複数人で話し合って問題を解決していく』という基本が身につけば、その中でキャラクターを演じて別の人生を生きる楽しさや、ゲームシステムを逆手にとったデータ的な遊び方もできるようになります。
結果的に、「何(システム、シナリオetc)を遊ぶか」よりも、「誰と遊ぶか」のほうがよっぽど重要なんです…。これから始める方は、 面子選びは慎重に。TRPGビギナーでも、人格的に信頼できる人とやった方が絶対に良いと思います(笑)

  • Banzai Attack!: TRPGにおける魅力的なキャラクターの創作法

 http://razeru.blog.ocn.ne.jp/banzaiattack/2006/06/post_8ee8.html

だがTRPGはそうはいかない。
如何にPLが自PCを格好よく演出しようとしても、GMがそれに即した場面を提供してくれるとは限らず、また自己の望みとはかけ離れた局面に出会う事もしばしばある。
また愛する自PC以外にも、同様に活躍する権利を持った他者のPCが存在する。
ゆえに、TRPGにおける『魅力的な人物』は、己の為に用意されたわけではない場面においても、その言動が衆目に晒されるのだ。
二人称的視点(「あなた」の存在)、三人称的視点(「彼、彼女」の存在)が混在するがゆえに、想定外の事態(特定の想定以外の、セッション中のほぼ全ての局面)に対処しなければならない。
そうした事態に対し、極度に『魅力的に』ディフォルメされ、凝り固まり過ぎた人物像が足枷となって、自然体の対応を妨げる事になりやすいのだ。

  • 売れないTRPG

 http://homepage2.nifty.com/FATCAT/trpg/essays/essay5.html

しかし、なんといってもRPGの魅力をそぐもの、それは羞恥心であろう。
何年か前、NHKの青春探訪という番組でRPGが紹介されたことがある。番組の作り方にいろいろ異存はあるだろうが、何をおいてもあの中で映像となったプレイ風景がいかに恥ずかしいものに見えたかという点が問題である。いわゆる「演技」の部分の映像で、演技にいたる前後をカットしているためになおさらに「演技」そのものが強調されている。しかし、あの前後をきちんと放映しても視聴者をうんざりさせ、チャンネルを変えさせる以上の効果は期待できなかっただろう。そして、レポーターである江川紹子氏に「やってみればわかるよ」と誘うRPGプレイヤーたち・・・。
この番組が例え偏見と先入観だけで構成された番組であったとしても、RPGの普及をはばむ最大の問題点を遠慮なくえぐっていることに間違いはない。
RPGにおける演技は、空想と陶酔の表出したものである。自己フィードバックであり、他からのフィードバックを求める訴えである。すっかりなりきっている時にはもはや自己陶酔といってさしつかえない。しかし、そのように陶酔している姿というのは他人に見られたくない恥ずかしいものだ。なぜかといえば、それはむきだしの心であり、もっとも弱いありのままの裸の姿だからだ。その真の姿は願望、劣等感、郷愁、嫉妬等様々であるがいずれにしろ心無い言葉で傷つけるのは実に容易だ。
自己陶酔は心地よい。しかし水をさすのは簡単だ。しかし心のおもむくままの姿というのは心の醜さにも身を任せているということだ。わずかでも人倫を心得ていれば、そんな姿を人目にさらすことには耐えられまい。すなわち恥ずかしいのだ。

羞恥心は初心者などRPGに詳しくない人をRPGから遠ざけるばかりではない。RPGに馴染んだ人を遠ざけることもある。
演技にはしばしばその人のエゴが表出する。それは演技をともなわないキャラクタープレイにさえ潜む危険である。要は・・・それが鼻につくということだ。同じくらいの成熟度の精神であれば他人のエゴにうんざりし、成熟した精神の持ち主はあまりに子供じみた感情の吐露にはうんざりする。また、願望や劣等感といった感情がある程度満たされてしまっても我にかえるがごとく恥ずかしさを覚えて遠ざかるだろう。結局、内にためこんだものが解消、昇華されることでついてゆけなくなるのだ。
ここまで書いてきて筆者ははと思った。はたしてこれはRPGそのものの不可分な性質なのか、それとももっと他にあるRPGの魅力をそいでいるだけの不純物なのだろうか?
もし、不可分の性質であれば、何をしようとこの先もRPGは十分に普及しないだろう。製品は小さな会社で極力安普請にしあげたものでしか提供できないだろう。だが、もし、不純物であればそれを排除あるいは少なくとも外道とすることで普及へのめどがたつかも知れない。

 http://www.scoopsrpg.com/cgi-bin/wforum/wforum.cgi?no=531&reno=528&oya=462&mode=msgview

> > これは、私の見解ですが、キャラクタープレイヤーは物語とキャラクターの関係など
> > キャラクターを生かす技術が足りないのではないかと思います。
> 技術不足は深刻ですよねorz
> 特に「○○ができれば技術が高い証拠」みたいなのがないですし…
> 勝負要素も薄いので「勝ち続ければ技術が高い証拠」ってわけにもいきませんし…
勝負でなくても演劇にはうまい演技をする技術があります。
勝負でなくても小説には面白い小説を書く技術はあります。
優れたキャラクターと言うのはうまい演技や面白い小説の上に立脚しています。
悪いキャラクタープレイヤーは明らかに勉強不足です。
キャラクターにしか目がいかずに物語全体が見えていません。
そして、更に演劇や小説の手法をそのままTRPGに取り込んでも
ダメだと言うことを意識している人は非常に少ないと思います。
TRPGは演劇や小説とは異なる物語の表現媒体です。
演劇のように小道具や衣装、大振りな演技に頼るのには限度があります。
小説のように地の文での解説は口頭で伝えるには向いていません。
TRPGでは演技は簡潔な短いセリフで描写する必要があります。
長大な背景設定はTRPGの中では生かし切れず焦点がぼやけるからです。
焦点を絞って簡潔な2、3の文で表現するのが大事だと思います。

TRPGで言うところの演技技術はやろうと思えばいくらでも向上させることができます。
ゲーム技能は成長させることができるけど、
演技は成長させることができないというのは誤解だと思います。

  • yatukazeのTRPG徒然日記

 http://d.hatena.ne.jp/yatukaze/20060329#p1

と、実はここまででやっと前置きなのですが、TRPGには「ゲーム的な進行を補助する「役割」のロールプレイ」と、「演技としてそのキャラクターを演出する「役柄」としてのロールプレイ」という二つが同居している、というのが本題です。
tukasabe様のブログでも言及されているように、「役柄」しか演じられないPLは脱線してしまいがちに思われます。
しかし、以前も書いたように、そのシステムを知らないから、とりあえず演技力で乗り切ろうというのは、初心者には有効な方法です。
たとえば、情報収集を行う際に「コネを使う」のか、「街で聞き込みをする」のか、あるいは「占う」のか、どれがメジャーな方法なのかわかりません。
それなら、判断基準は「ゲームとしてどれが正しいか」よりも「キャラクターとしてどうしそうか」の方が優先されるでしょう。ゲームとしてどれが正解なのかはそもそも知らないのだから、考えたってどうしようもありません。
コンベンションなどで知らないシステムを遊ぶ際にもそれは言えるでしょう。
いわゆるFEARゲーの、テンプレートに沿って判定していけばストーリーは進む、というスタイルはこの「役柄」しか演じなくても大丈夫、というのを強く意識していると思います。
ただ、問題が一つ(いや、本当は無数にあるんですが)。
「役柄」だけでプレイが出来てしまう所為で、「役割」について模索していこうと言う姿勢が薄れてしまうことです。
確かに、FEAR的な英雄ロールは楽しいかもしれません。
しかし、その所為で、どこかで見たようなアニメやらゲームやらの模倣ばかりのプレイヤーが多いことも事実です。
コンベンションでそういうプレイヤーに当たってしまうと、原作では〜だったから〜すべきだ!と声高に押し付けてくるような痛々しいセッションが起こる事も事実です。(私も体験しました)
そういったプレイヤーは、前例に倣うばかりで、自分たちで新しいものを作ろうと言う意識が足りないと思います。
今まで経験したことのない状況に置かれるとすぐに思考停止して、状況が動いてくれるのをじっと待つばかり。
自分から蚊帳の外に居座るくせに、動きにくい動きにくいとぶつくさ文句ばかり言う。
そういうプレイヤー、周りにいませんか?
ここまで末期症状になってしまうと、以前このブログで馬鹿にした「ロールプレイが出来ないのは本人の人間力に問題がある」というのも、つい頷いてしまいそうになります。
「役柄の演技」に特化したFEARのゲームが、役割も役柄も考えながら動かないといけないゲームに比べて初心者に親しみ易いのは必然だと思うし、そういったゲームも業界としては必要だと思います。
ただ、それだけでは遊べないゲームも、それだけでは遊びにくい環境もあるのは間違いなく、入門編としてのFEARから巣立っていく、役割を演じられるだけの引出しを増やしていくことができる土壌がないといけないんじゃないかな、と思うのです。

  • 資料:卓上RPGにおける「演技」の定義

 http://www.rpgjapan.com/data/aboutENGI.html

3、"定義"を別の言い方で表現してください

"キャラクターの真似"
鍼原神無 仮想人格の表出と解釈し得る行為の連関。

#例え、主観的には、ゲームプレイに徹している人がいるとしても、その人が使う「セリフ」などから、仮想人格としての一貫性や多面性が解釈可能ならば、それら(「セリフ」など)は、演技とみなせる。
ずずず プレイヤーのサブ人格のキャラクターへの近似化
オーエン プレイヤーの指針と主観的キャラクター情報の媒体。他のキャラクターの潜在意識を引き上げる一種の呼びかけ。他のプレイヤーが、そのキャラクターを理解するためには、質問を浮かび上がらせることが必須である。それをスムーズに行うための手段。物語を色々な角度から分析するための手段。
はしざき 映画や舞台で役者がやってる”あれ”
宇津見 (記述なし)
Genich! RPGのプレイ中で使われる意思伝達・表現手段のうち、描写でないものの総称
あえて言えば、 コミュニケーション重視かな?
ニンジャ キャラクタープレイ、キャラクター演技、キャラクター描写など。

  • D&Dと黒トド

 http://www.geocities.co.jp/Berkeley/7275/dd.html

実は今のTRPGにおいて、TRPGの特徴と目されているキャラクターを演技するという概念は、D&Dがプレイされ始めた時あまりなかったらしい(私も入って30分で死ぬキャラクターにあまり詳細な性格を決めたいとは思わない)、役割を守るということならばSLGの頃から存在していることだ。
これらのことから、D&Dがでた当時はロールプレイという要素よりも自由に話が作れるというところが重視されていたのではないかとここでは仮定する。
ちなみに、「D&Dは何か違う…」と思わせる理由は、このゲームがキャラクターを演技するという概念が一般化する前のゲームだということに原因があると思う。それは同じ言葉が同じくTRPGの草創期に作られたT&Tなどの他のゲームにも聞かれるからだ。
別に対応していないゲームでも演技することは出来るが、D&Dにはキャラクターの細かい性格を演技するような事はほとんど書いていないから、どことなくスムーズに行かないという可能性は高い。これが違和感の原因だと考えられる。
そう、最初のD&D1回目のプレイではまだ自由なストーリーも展開されていないし、演技も必要になっていないのだ。 

ここまでの文で書いたように、現代のTRPGは演技やストーリー性など様々な要素を積みましている。しかし、D&Dにあって今のTRPGには無い物も存在している。

それは「GMの気軽さ」である

D&D以降のTRPGが獲得してきたTRPGの要素というのは、その多くはGMにその負担を押しつけることによって成り立ってきたと言えるだろう。
演技はそれに対応するGMの動きが無いと生かされないし(私は友人から演技を一切無視するGMのセッションで演技することの虚しさを聞いたが、あまり楽しそうには思えなかった)、ストーリー性というのはオフィシャルで提供されない以上GMが用意する羽目になることが多い(久しい昔はたくさんのシナリオが提供されていた物だが、現在はそうもいかない)。また、ゲーム性として精密な戦闘や莫大なデータ&ルールを用意してもそれを一番処理するのはGMなのだ。
ここ数年は、S=FadやスターロードのようにGMの負担を軽減する仕掛けを持ったTRPGも生まれて来ているが、未だ「GMが楽だ」という話は聞こえてこない。
よってGMを好むプレイヤーは少なくなる一方である。
しかし、TRPGという遊びは構造的にGMを必要とする。
これはTRPGが持つ最大の問題であり、D&D以降のTRPGがどうやって解決するべきなのかという事を考えて行くべき問題であろう。

  • ブレイクスルー

 http://samuel.fc2web.com/breakthrough.htm

ブレイクスルー機能は、主にPLの見せ場を作るためのシステムとして機能する。また、一部のゲームではこうしたブレイクスルー機能をPCのみの特権的なルールとして使用することで、PCが特別な存在であることを示している。
実際、こうした能力を持たないままでは絶対に勝ち目のない敵に、互角以上の戦いを挑むことができるようになる、ゲーム上の重要なリソースだ。
D&Dソードワールドなどを中心に遊んでいる人には想像し辛いかも知れないが、このブレイクスルー機能を如何にうまく扱うかが、PLとしてもGMとしても、TRPGにおける腕の見せ所になっている節もある。

ブレイクスルー機能の存在により、以下の効果が現れる可能性が出てくると考えられる。

1.PCの活躍する場がルールで保障される。また、活躍する回数が一定の範囲に収まりやすい。
2.PLの演出を補助することができる。演技などが苦手な人も、それなりに演出できる可能性が出てくる。
3.演技などをやる気がない人が、TRPGに参加しにくくなる。また、それ以上に問題なのは、演技が苦手なPLに演技を強要する参加者が現れる可能性があることである。一方、演技が苦手な人のせいで盛り上がっていた雰囲気が壊される場合もあり得る。
4.処理系が非合理になる。故に、初心者が寄り付かないし、参加者の間でゲーム上の処理の認識が異なることで争いが生まれる場合もある。

ただ、上記の2と3それぞれの内容は、前者が『演技が苦手な人』、後者が『演技をする気がない人』としているのできちんと差別化はできていることを付記しておく。
問題なのは、ルールブックを持っていないような初心者や初期のD&Dから遊んでいる古株ゲーマーを中心に、『演技が苦手な人』が演技を強要されることで『演技が嫌いな人』になってしまう可能性が大きいという点だろう。
その上で、現在のTRPG環境において、演技を求めるか否かにより、各ゲーマーの温度差が異常なまでに大きいという現実を考えるべきなのは事実だろう。同時に、その問題をブレイクスルー機能に責任転嫁するのは愚かだということも言える。

  • 男性プレイヤーの演じる女性PC

 http://www.interq.or.jp/dragon/silvia/LIBRARY/L_FEMALE.html

●女性キャラをやるのに羞恥心は必要か?
 私が発端なのかな、羞恥心云々の発言。
   色々取る方がいらっしゃるようですね。
素人小説書きでもある私は、女性の台詞を書くし、
   女性ならこう考えるかな? とか考えつつ小説を書いているので、
   女性キャラを操る際、結構すんなりロールプレイできてしまう、
   と言う事を冗談めかして羞恥心なしと表現致しました。
 
    かじたは別に人に不快な思いをさせたい訳ではありません。
   外でやるときは、女性キャラをやるって言ってみて、
   反応は見ますよ。
   ただ、それで引かれる場合は男性キャラしかやりませんよ。
   へこいロールプレイをするくらいなら、
   RPGをやらないほうがましと思っているので。
   結局、かじたは自分の能力と周囲の状況が許すような
キャラクターを、100%ロールプレイしたい性質なものですから…。
   あ、また誤解を招くかな(^_^;)。
   周りとの調和も考えつつですよ。
   私のRPG観は、みんなで小説みたいなストーリーを作ること、
   ですから…。
 
    ロールプレイ度が深い(この場合、こっちの方が偉いとか、
   そう言う意味ではないです)人達じゃないと、
   経験上、余り女性キャラを男性がやることに関しては
   のってこないですね。

*1:ソードワールド」が出たばかりの頃。仲間内では純国産として一段低くみていた。そのくせ、ロードス島戦記にインスパイアされたMYキャラクターを演じていたり。あぁ、痛いわ……。