「人でなしの恋」(沙村広明)いずみコミックス


 あとがきより。

二十代の頃、責め絵師になれる才能が自分にあるのではないかと思っていた。単色(モノクロ)の画力と、女体を責め呵む空想力に自信があった。自分の一番得意なジャンルを、一番得意な画材を使って思うさま表現したいという強力な欲求があった。

世間様に自分の責め絵をさらすにあたり、まず自分に課したのが「同じ責め方の絵を二枚以上描かない」という約束だった。さらに「それを守ったまま百枚(以上)描く」のを目標とした。

結果、それは惨敗だった――――いや、惨敗ではないのかも知れないが、とにかく成し遂げられなかった。

今ならば、敗因は痛い程理解できる。
自分が憧れた「責め絵師」――――その大家たちは、そもそも「毎回の画題を重複させない」などといった些末は考えていまい。
それは当然だ。彼らは本当に「責め絵を描いてメシを食っていく」と心に決めて実践してきた人達であり、責め絵を描く事と生きる事を切り離さぬ人達だからだ。

ともかくこのようにして、今では責め絵に対する執着をすっかり失くしてしまった自分だが、そういう妙に冷めた眼で描いてきた物々を振り返ると、描いたモチーフに対する感想を持つよりも先にデッサンのあらばかりが目立つ一冊になってしまった。

 「今では責め絵に対する執着をすっかり失くしてしまった」と語る沙村が表紙に描くのは、この世のどこにも存在しないのではないかと思わせる秘密の花園で、追いかけっこや花輪作りを楽しんだり手を取り合って輪になって踊る少女や女性たち。
 彼女らが、この本の中で、乳房を縫い付けられ、膣の中から密輸入したヤクを男のごつい手でぞろぞろと抜き取られ、家畜人ヤプーばりの人間椅子に改造され、伸び盛りの筍の直上に全裸で膣位置を固定され、ケツメドからノド元までを焼き鳥の串で貫かれ、四肢切断された上で道祖神をすっぽりと膣にぶち込まれ、両手を両足をそれぞれ固定した機械を逆方向に回転させて体躯をねじられ――沙村の妄想の限りに責められていた少女や女性であることに疑いはない。一人だけ視線を花園の外=読み手に向けてしっかと投げかける黒髪の少女がいる。作者の手によって責められていた少女が、作者(と読み手)を目線で責める。


 責め絵の数々は、98年から03年頃まで散発的に発表されている。98年以前、「無限の住人」では、天津の影武者役の女郎が乳房をノコギリ刀で切り刻まれたり、関所破りのため凜が帝王切開跡を偽装する刀傷をつけたり、責め絵でやりたかったのだろう嗜好の片鱗が見え隠れしていた。すでに責め絵を始めている99年、「むげにん」を連載するアフタヌーンの4月号、5月号では、百琳が、熱した錐で太腿に開けられた小穴へ唐辛子壺に漬け込まれた釘をねじ込まれたり、斧の背で左腕の骨をへし折られたり、集団レイプを受けていた。責め絵に対する渇望がストレートに強かったのだろうと思われる時期と一致する。「むげにん」で、その後、女性が責めを受ける描写はない。


 「人でなしの恋」の収録作品が発表の時系列順に収録されているのなら、そこにも沙村の嗜好の変化が窺える。


縛り、打撲、人身売買、裂き傷などの描写から、

四肢切断、鋭利な枝付きディルドー、明らかに死を予兆させる折檻が待ち構える一瞬などを描写するようになり、

完全な死体、変死体、もう何分も持たないだろうという致命傷を負わされた女体へ、

ラストの2枚は人間ですらない壊れた(壊された)人形で締められる。


 あくまで生きていてこそ責めることも可能なのであれば、もう後半は「責め絵」ではなく、帯のコピーにあるよう「無残絵」とでも言うほうがふさわしい。
 「責め絵」への興味を失っていたと見られる時期と、先頃やっと終了した「むげにん」の不老不死解明編で(連載期間で)長期にわたって卍が人体実験の「責め」により両手足を散々っぱら切ったり貼ったりを繰り返されていた時期は、重なる。迷走している感じが強かった不老不死解明編は、不老不死を可能にする血仙蟲のナゾに迫るように見せて、卍以外に不老不死能力を移植するのはほぼ不可能という迫りきれたのかどうかよく分からない結論を出して終わっているが、「責め絵」への挑戦の過程で死体や無生物にテーマが移っていったことと、どこかリンクしているように思える。


人でなしの恋 (いずみコミックス)

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